1305年8月18日は1338年室町幕府初代征夷大将軍に補任され、室町幕府を開いた足利尊氏の誕生日にあたります。
足利尊氏は後醍醐天皇のもと、楠木正成らとともに鎌倉幕府を滅ぼしますが、後に離反し後醍醐天皇方の武将新田義貞に尊氏討伐を命じ、箱根・竹ノ下の戦いにて尊氏はこれを破りますが、京都で楠木正成などに敗れ九州に落ち延びますが、態勢を立て直した尊氏は湊川の戦い(7月4日湊川の戦い参照 )で新田・楠軍を破り、入京します。
その際後醍醐天皇は和睦の後京から奈良(吉野)に移り、京では後光厳天皇が就きここに南北朝時代が到来することになります。
また天皇になるには三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)が必要でしたが、後光厳天皇はこれを手にせず天皇になりました。
この時期から約60年ほど南北朝の内乱が幕開けすることになります。


梅松論』では尊氏は


『戦場での勇猛さ』『敵方への寛容さ』『部下への気前の良さ』という3つの徳があった


とされています。
また、傘下の武将たちへの恩賞を惜しむことがなく、そのことが苦境に立たされても常に武将たちの支持が得られたと言われ、部下からは厚い信頼をいていたと言われています。

しかし、後世の評価とても悪いもので、
後醍醐天皇に背いた逆賊とされ、幕末には『足利三代木像梟首事件』という事件が起こり、これは京都等持院にあった室町幕府初代将軍尊氏、2代義詮、3代義満の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒された事件が起こります。
これは当時江戸幕府倒幕という意味も込められていたとも言われてはいます。
また、明治時代以降は南北朝正閏論(南北朝ではどっちが正しいかという論争)が起こり、南朝の後醍醐天皇の正統性が強く主張され、戦前の国定教科書には


『天皇に弓を引いた逆賊』


と尊氏を評価され、斎藤内閣の中島久万吉商工大臣が尊氏を礼賛した文章を書いたために辞任する事件も起こったほどです。
また、海音寺潮五郎等は尊氏の失敗点をいろいろ付き、


『人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている』


と厳しい評価を下しています。


足利尊氏の墓所は現在京都府京都市北区萬年山等持院にあります。


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