1617年8月17日は後に加賀100万石の祖となる前田利家の正室芳春院(まつ)の命日にあたります(以下芳春院をまつと表記します)。
まつは利家公とは従兄妹関係にあたり、女性でありながら学問や武芸に通じたと言われています。
また、まつは結構気が強く、カカア天下とよく描かれています。


まつは数え年12歳で利家に嫁ぎ、2男9女の子供をもうけました。
有名な人物としては4女豪姫かもしれませんね。
豪姫は秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁ぎました。
また豪姫は関ヶ原の戦いの後、敗軍の将となった宇喜多秀家が八丈島に島流しになった際、再婚をすることなく死ぬまで秀家に仕送りをし続けたと言う一途な女性で知られています。


またまつは幾度もお家のためにいろいろ走り回ったと言われています。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に加担した利家が敗走した際、秀吉に会って和議を講じて利家の危機を救ったり、関ヶ原の戦いの際には自ら人質になって江戸に下り、加賀を継いだ嫡男利長が死去するまでの14年間を江戸で過ごしたり、お家のことを第一に考えていた人物だったとされています。


また、秀吉の正室高台院(ねね)とは懇意の間柄であったことはとても有名です。
信長の家臣として働いていた秀吉と利家は屋敷の塀を隔てた隣同士でねねとまつは毎日のようにどちらかの屋敷に行き、話し込んでいたと言われています。
また、まつは秀吉の母なか(大政所)とも懇意の仲であったとされ、なかの畑の手伝いをしたり、なかが栽培した野菜をまつに届けたりもしていたといいます。
子供ができなかった秀吉とねねのために豪姫を養女にしたことも有名です。


そして1617年8月17日まつは金沢城内で死去しました。


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