8月12日はロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワと現在の看護学の祖ともなったナイチンゲールの命日にあたります。


ウジェーヌ・ドラクロワ(1798年4月26日ー1863年8月13日)
ドラクロワは19世紀ロマン主義を代表する画家で、歴史的事件を絵画にしている代表的な人物の一人です。

代表的な作品としては『民衆を導く自由の女神』、『キオス島の虐殺』などがあります。
『民衆を導く自由の女神』は1830年に起きた(フランス)七月革命の場面を絵画にしたもので、これには作者ドラクロワ本人も描かれている事でとても有名な作品です。
この絵画は彼の肖像とともに、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたことがあったそうです。


また、『キオス島の虐殺』は1822年4月11日から数ヶ月間、キオス島で、独立派鎮圧のためトルコ兵が一般市民を含め、虐殺した事件でドラクロワはこれを題材にし、サロン・ド・パリに入選を果たし、フランス国家買い上げとなりましたが、アントワーヌ=ジャン・グロはこの作品を『これはキオス島の虐殺ではなく絵画の虐殺である』とまで酷評された作品です。
この作品はトルコ兵が全裸のギリシャ女性を陵辱されている所や、死んだ母親に寄り添う幼児、それらを呆然と見守るギリシャ人の人々が1枚のキャンパスにまとめられています。


当時のアトリエ兼自宅は、現在では国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館になっています。



フローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日ー1910年8月13日)
ナイチンゲールは近代看護教育の生みの親としてとても有名な人です。
看護師や看護師の勉強をしている人ならまず知らない人はいないというぐらい有名です。
また、病院建築でも非凡な才能を発揮し、クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革でも著名な人です。


ナイチンゲールは裕福な家庭で幼少期は、ありとあらゆる教育を受け、不自由のない生活を受けていたと言われています。
しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにすることにより、人々に奉仕することを考えるようになります。


1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、後にロンドンの病院へ就職するが、無給で待遇も全く良くなかったと言われています。
当時の看護婦(当時はこの言い方が一般的だったのでこの表記で書きます)は、病院で病人の世話をする単なる召使い程度に見られていて、専門知識の必要がない職業と考えられていました。
そのため、専門的教育を施した看護婦の必要を訴え続けました。


しかし、1854年にクリミア戦争が勃発し、ウイリアム・ハワード・ラッセルにより前線での負傷兵の扱いが悲惨な状況であるかと伝えられると、一気に世論は沸騰されます。
これにより、ナイチンゲールも自ら38人の看護婦として従軍し現地に赴きます。
しかし、たどり着いた兵舎病院は極めて不衛生で、官僚的な縦割り行政から必要物資が全くない状況でした。
それでもできる限りのことをし、着任後の死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の調査で衛生状態の改善により好転しました(5%まで落ちました)。
兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだということが後に推測されました。
その働き振りから『クリミアの天使』とも呼ばれました。
現在看護師を『白衣の天使』と呼ぶのは、このナイチンゲールの功績に由来します。
また、夜回りを欠かさなかったことから『ランプの貴婦人』とも呼ばれていました。
ただナイチンゲールは周りから称えられるのをあまり好ましく思わなかったらしく、クリミア戦争終結後の8月6日、スミスという偽名を使用し、人知れずイギリスに帰国したと言われています。
そのため、墓標にもフルネームではなくイニシャルしか記すことを許さなかったと言われています。


しかし、後にクリミア戦争で熱病にかかり、37歳の頃から慢性疲労症候群に由来すると考えられる虚脱状態に悩まされ、晩年はほとんど自宅にいることが多くなり、1910年8月13日永眠することになります。


またナイチンゲールは1907年5月12日、女性初のメリット勲章を授かるという栄誉を受けています。