今日8月9日は長崎にプルトニウム原子爆弾ファットマン』が長崎市に投下されました。
これにより、長崎市街は壊滅し、およそ15万人の人が死亡しました。
実は原子爆弾が兵器として使用されたのはこれが2回目で、1回目はこの3日前の8月6日8時15分に広島に投下されたのが最初です。
この時使用された原子爆弾はウラン爆弾リトルボーイ』です。

しかし、当時のアメリカ軍は2発目の原爆は第一目標は長崎ではなく、少し東にある福岡県小倉市でした。
もし小倉市がダメなら長崎に投下する予定でした。
ではなぜアメリカ軍は小倉市から長崎市に目標を変更したのでしょうか。
それは当時の小倉市は幸運?なことに少し曇っていて(2/10ぐらい)、少し視界が悪かったと言われています。
そのため、幾度か小倉市に原爆を落とそうと上空を飛行していましたが、目標が定まらず、手こずっているあいだに日本軍が対空攻撃を行い、また飛行機の燃料も少なくなってきていたため小倉市を諦め、長崎に向かいました。
しかし、小倉市からさほど離れてはいない長崎市でも天気はさほどよくはありませんでした。
しかしこのまま原爆を持ち帰ってしまっては着陸時衝撃などで爆発をしかねません。
アメリカ軍がしばらく長崎市上空を飛んでいた時、長崎市にとって不幸なことが起こってしまいます。
それは雲の切れ間から少しだけ長崎市街が見えてしまったことです。
アメリカ軍はその切れ目をめがけて原爆を投下し、11時2分悲劇の瞬間が起こってしまいました。

実はこの『ファットマン』は広島に落とされた『リトルボーイ』より現実的な被害は少なく済みました。
その理由として広島市は周りが平地や海だったのに対し、長崎市は周りが山に囲まれていて、熱線や爆風が山に遮られ、周りに広がらなかったため、長崎市街を中心として被害が広がったためです。
しかし、もし広島と同じ条件だった場合、その威力は広島の被害を超えていたのではないかと言われています。
また、第一目標の小倉市に落とされていた場合、周りは海と平地が広がっていたため、北九州市一帯と下関市までまるごと被害を受けていて、死傷者は広島を超えるものだったのではないかと推測されています。

現在の北九州市では、第一目標とされていた旧小倉陸軍造兵廠跡地の勝山公園に祈念碑を立てました。
その後長崎市から『長崎の鐘』が贈られ、毎年8月9日に原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っている。


ちょっとだけ余談ですが、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方による原子力災害を経験した唯一の国です。
原子爆弾は1945年8月6日と9日、水素爆弾は1954年3月1日第五福竜丸が被爆をしています。
また、第五福竜丸の久保山愛吉無線長が


『原水爆による被害者は、私で最後にして欲しい』


と遺言して死んだ事で、日本で反核運動が広まっていきました。
東京都杉並区の主婦による反核運動や、1955年の反核兵器運動も、この第五福竜丸の被爆が動機となっています。
また、第五福竜丸が浴びた放射性物質とその被害は、後に『ゴジラ』が制作される動機にもなりました。