今日7月30日は1570年(元亀元年6月28日)、織田信長・徳川家康連合軍VS浅井長政・朝倉義景連合軍が近江国浅井郡姉川で戦い、織田・徳川連合軍が勝利を収めた日です。
浅井長政・朝倉義景連合軍と書きましたが、実はこの戦いでは朝倉義景は参加をしていなくて、代わりに朝倉景健が出陣しています。
朝倉義景は当時の朝倉家の当主であったためこのように表現しています。
そしてこの姉川の戦い織田信長が浅井長政に対する報復のための戦いでもありました。
ではこの二人には一体何があったのでしょうか。



将来を期待された浅井家当主長政
織田信長は京に上洛をするため、どうしても近江と通らなければならず、安全に通れるルートが必要でした。
当時の近江は北に浅井家、南に六角家が勢力を保持していました。
浅井家当主浅井久政は後継長政が元服した際、六角義賢から『賢』の一字をとって『賢政』と名乗り、義賢の家臣平井定武の娘を正室に迎え、六角家の傘下に入っていました。
後に浅井家ではお家騒動が起こり、将来のことを暗視していた家臣たちが、将来性を期待されていた賢政を当主にしようとします。
そして賢政は父久政を竹生島に追放します。
ただし、このお家騒動は形だけで、父久政が正式に賢政を後継にするための芝居だったという説もあります。

後継となった賢政は義賢からもらった『賢』の字を『長』の字に変え、正室を六角家に送り返し六角家の傘下から抜け出ています。
この頃から浅井家は勢力を拡大し、また六角家は後に観音寺騒動等で、勢力が落ちていきます。



戦国の風雲児デビュー
一方、永禄3年(1560年)戦国の世を震撼させる出来事が起こります。
世に言う『桶狭間の戦い』です。
一説では戦いの場所は桶狭間から少し離れた田楽狭間で行われたという説があることから『田楽狭間の戦い』とも言われています。
この戦いは織田信長がまだ尾張の大名だった頃、上洛を狙っていた東海道一の弓取り今川義元が尾張に攻撃中、織田信長の奇襲にあい討死してしまいました。
これにより、信長は華々しい戦国デビューを果たすことになります。


これらのことにより、信長と長政はお互い認め合い、後に同盟を結ぶことになります。
その同盟の証として、信長の妹お市の方を長政の正室に迎えることでした。
これにより、京への上洛の道が開け、信長の元に身を寄せていた足利義昭を将軍にすることに成功します(足利義昭は最初朝倉家に身を寄せていました)。


信長の誤算
そして信長は朝倉家に対して上洛を促しますが、朝倉家はこれを拒否します。
これに怒った信長は朝倉討伐軍を起こし越前国金ヶ崎へ進んだところで信長にとって予期せぬ出来事が起こります。
当時信長と長政の間には『朝倉への攻撃をしない』という約束をしていたため、それを破った信長を怒り、長政は朝倉家について信長に背後から攻撃を始めます。
不意を突かれた信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らの活躍で命からがら京へ脱出をします。
後にいう『金ヶ崎の退き口』です。
これは信長の妹お市の方が夫長政の行動を小豆を両端を紐で結んだ袋に入れて送ったことにより、信長は長政の行動を知りいち早く撤退することができたという逸話が残っています。


決戦
信長は長政に対して報復として戦った姉川の戦いは先に話したとおりです。
この戦いは信長は13段の構えで迎え撃ちますが、浅井家先鋒の磯野員昌に11段まで崩され、敗走の用意をしたという逸話はありますが、信憑性は薄く、結果この戦いは織田・徳川連合軍が勝利を収めています。


姉川付近に『血原』や『血川』という地名が残っていますが、これはこの姉川の戦いの際の激戦区だったと言われ、その辺り一体は血に染まったことからそのように呼ばれていると言われています。


姉川の戦いのその後
この戦いの後、浅井・朝倉家は比叡山の僧兵衆や石山本願寺などの一向一揆衆と手を結び、ここに信長包囲網が結成され、後甲斐の武田信玄などもこの包囲網に加担をし、信長を大いに苦しめることになりました。


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