7月4日は鎌倉幕府が滅亡した日(1333年7月4日)なのですよ。


1192年に源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武家政権を確立しましたが、1199年に頼朝は突然死去し、跡を継いだ頼朝の嫡男源頼家は当時18歳という若さだったため、政務を任せることに不安を抱き、有力御家人から十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築きました。その中の北条氏が力をつけ、北条時政・義時父子が他の有力御家人を次々と滅ぼしていきます。


1203年頼家が伊豆の修禅寺へ幽閉され、弟の源実朝が将軍位に就くのですが、翌年に死んでしまい、ここから北条氏の執権政治が始まっていきます。
そして約140年後、1221年の承久の乱、元寇と鎌倉幕府の危機が訪れていきますがなんとかしのぎます。


しかし、1311年当時9歳だった北条高時が跡を継ぎ、高時の補佐役に長嶋高綱と安達時顕が付きます。当時、悪党(既存支配体系へ対抗した者・階層)と呼ばれる勢力が現れ、これを弾圧していきますが、最終的に抑えることができなくなっていきます。
そんな中出てきたのが、後醍醐天皇です。後醍醐は天皇を中心とする政治体制の再構築を企てますが、何度も失敗します。そして隠岐島に流されてしまいます。その後登場するのが楠木正成、赤松則村など各地の悪党が反幕府の兵をあげるようになりました。1333年反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された幕府側の有力御家人の足利尊氏が、一転して後醍醐側につき六波羅探題を落とすと、新田義貞が上野国で挙兵し、これに呼応した関東の御家人たちと鎌倉を攻略していき、鎌倉幕府と北条氏は滅亡します元弘の乱)。


湊川の戦い、楠木正成の討死(1336年7月4日)

1336年初め、足利尊氏は新田義貞、楠木正成、北畠顕家らにやぶれ京都を追われ、九州へ落ち延びます。ここで、後醍醐天皇に、今のうちに足利と和睦することを進言しますが、後醍醐はこれを退け、尊氏討伐の軍を西へ向けて派遣します。正成は和睦を進言したことで朝廷の不信を買い、この討伐軍から外され、謹慎を受けます。
しかし、この足利討伐軍は新田軍から足利軍へ大量の寝返りや投降者を出しながら敗北をきっしてしまいます。
後醍醐天皇は正成に足利軍と戦うよう命じ、援軍を差し向けます。
そして、兵庫県湊川において、足利軍と戦うことになりますが、義貞軍の逃走などで楠木軍は孤立をしてしまい、壊滅してしまいます。
正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却していきます。

当時の神戸市付近は、現在よりも海面が高かったため、平地が狭く、大軍での陸行動には適さなかったと言われ、水軍をまったく持っていなかったことが、決定的な敗因となっていると言われています。
この湊川の戦いが起こったのが1336年7月4日にあたります。


この湊川の戦いの直前、正成は嫡男の楠木正行を本拠地の河内国へ帰した『桜井の訣別』は勝ち目のない戦と知りながら、天皇のために忠義を尽くして死んだとし、唱歌などでも盛んに取り上げられていました。


鉄道唱歌『心の花も桜井の 父の遺訓を身にしめて 引きは返さぬ武士の 戦死のあとは此土地よ』


この湊川の戦いは楠木軍からしてみればまさに『死ぬための戦』と言われていて、足利軍に対して、楠木軍は1/20ほどしかなかったと言われています。
そして正行が


『最後まで父上とともに死ぬ覚悟です。』


と言い、正成が


『お前を帰すのは自分が討死したあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党ひとりでも生き残るようにして、いつの日か朝敵を滅ぼせ』


と説き形見として菊水の紋が入った短刀を授け、泣きながら今生の別れを告げたとか…
湊川の戦いのあと、正行のもとに父正成の首級が届けられた時、仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したと言う話があります。


似たような事他にもありましたよね…
大阪夏の陣で真田幸村が子の真田大介幸昌に言った言葉…
まさにこれに似ていますね


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