「心とは若葉にマッチで火をつけて燃えてしまうように脆いもの そんな自分はまず信用ならない だからまして他人なんて頼りないものを当てにしてはいけない まずは自分の心を強く育てること」
と先日 友人から教わった 耳の痛い話だった そして
「心が山火事の人とは関わらないこと」
とも話した 人は勝手な妄想で他人を評価し判断する 私はココ一年半で本当に自分を見つめることの大切さをようやく知った 他人がどう思うかではないし他人をどうこう言えるほど誰も偉くはない
物質は光が地球を一秒間に七周半するくらいの猛スピードで変化する これだけでも十分に速いのに心はその十七倍の速度で変化するそうだ つまり我々はよっぽどの観察能力が無ければ世界を本当に認識することはできないわけ そんな速度についていこうと思うと ものすごい訓練が必要になる
しかし水をひとしずく眺めているだけで世界は刻一刻と変化し続けていることは一目瞭然なのであり 太陽さえも消えたり現れたりしている この宇宙もそう また海はやがて人間のカカトくらいの大きさになりますよ(地球の全体の七十%は海) という科学は今から二千六百年前に仏陀によって発見されたこと それほどに私たちはめまぐるしく変化しているのだから人間としての一生なんて一瞬の夢見物語 まばたきする間に終わってしまうよ
仏陀いわく心とは科学作用のことを言うんですね 心ってなにか ずっと不思議だったけど科学的に説明できると知って私はとっても安心したんだ たくさんの心理学や哲学 輪廻に関する本など端はオカルトまでいろんな本を読んだ でもどこにも納得のいく答えはなかった どこにも心が科学だとは説明はなかった その点 仏道とは実に科学的だと思う 矛盾もよく分からないところも一切ナシ 仏陀によって宇宙規模で語られた真理だ
だからって宗教に助けを求めるのは何か違うとは幼少期から思ってた 宗教の時代背景を少し書こう 仏陀の時代といえばイエスさんはまだ生まれていなくて その千三百年前のモーゼ(旧約聖書の預言者)さんやら もっと昔のザラスシュトラ(ゾロアスター教の開祖)さんやら 仏陀のあとにもイエスさんの弟子たちが作ったキリスト教やら バラモンたちが仏教をパクったヒンドゥー教やら ムハンマドさんのイスラム教やら世界のあらゆるところに宗教が現れた いまや宗教文化を持たない人類を数えた方が早いだろうか まあざっと書けばこんな感じだろう 余談ですが そういえば創価学会は仏教からも日蓮大聖人の教えからも独立しましたね 私はそれを聞いた時ますますアタマを捻った 宗教ってなんでしょう? ってね
結論 私から言わせれば「思考の放棄」にしか見えない 思考の放棄ということは理性の欠如だと思う 心は若葉のようにマッチで燃えるくらい脆いものだと冒頭に書いたが それは人類皆に共通することだと思うし 自分の力で考えることを辞めたいのも皆同じだ だけど我々は強く生きなきゃならない そして理性的にね だから宗教だろうが仏道だろうが最後は手離さなきゃならないはずで それは至高の幸福へ繋がることだと信じてる 何かまたは誰かを神格化することや崇拝することが危険な理由はそこにある 人の心が若葉のように弱いことを熟知し逆手に取ってつけ込む人もたくさんいますから
それから 心が山火事の人とは関わらないこと というのは相手が怒りの感情に支配されているか 欲に支配されている または無知な状態のことを指すわけだけど これは私も自戒を込めて 振り回されるな と言いたい この三つを仏教用語で貪瞋痴(とんじんち)という 貪瞋痴はどうして生まれるのか? 一切が「無常」だから それは都合よく使われる世間的な無常ではなく出世間的な無常のこと
「桜が散って儚いわあ、、、ああ無常だ」
という日本語的な意味合いとはまるで違う無常 ものごとは絶えず変化し続けるという事実 永遠不滅のものなんて存在しない 変化=存在だから 無常についてはまた後日 触れようと思う 複雑なんでね
少し私のことを書こう 私は現在 体調がすこぶる悪く半分は寝たきりのようになっている 今年に入ってから私は人並みの暮らしを諦め人のお世話になっている状態だ それでTwitterもBlogも何もやっていない 喋るのも苦痛だっだ 去年末からこうなることはわかっていた 痛み止めの入手に規制がかかったのだ 私の若葉のように脆い心には火がついた メラメラと燃え私は黙るしかなくなって やり場のない気持ちをコントロールするのに苦労した ときどき私を悪く言うシーンをTwitterで見かけるにつけ辟易したが もはやそれどころではない まずは自分のことだ
医療大麻裁判に踏み切れないのはそれが最大の理由だ ずっとこのことを書きたかった 裁判とは自分の健康管理が大変なだけではないのに まして病人による原告団を抱えるなど今は到底ムリだと判断した それで私のことを何も知らず非難するのはそれぞれ個人の趣味だから私は気にしない 何かを発言すれば一定数の割合で私を嫌う人間がいることは知っているから 私の中にもある一定の数だけ関わりたくない人間は常にいる そんなものだ それほど人は強くないし私は博愛主義者ぶるつもりもない
心の火遊びは ほどほどにしないと本当に心の山火事になると思う 火消しに追われる日々などまるで面白くない 些細なことにも揺るがない心を目指すことが大事かと(心は刺激を求めるのでね)
仏陀に遺言はない 最後の教えはこれだ
「励みなさい」
ようやく自分の思いを言葉にできたことを嬉しく思う ありがとうございました