その当時、二人の叔母は自営業だったため祖母を自宅で一人にしておくのが
不安という話になり、祖母は我が家で過ごす期間が長くなっていた。
我が家は既に父が他界していて専業主婦だった母が一番時間に余裕があったからだ。祖母の健康問題に何も問題がなかった時は祖母に留守番をまかせて母は友達と
出掛けたり、泊りがけで趣味の麻雀に行ったり自由気ままな生活をしていた。
しかしながら、祖母が認知症とわかってからは自分の自由な時間がなくなり、
母は日々イライラを募らせるようになっていた。
それから少しして、母が「耳鳴りがする」と言い出した。耳鼻咽喉科をはじめとして幾つかの病院で検査をしてもらったが原因はわからなかった。
そのうち、母は自分の耳鳴りの原因は祖母の介護のストレスによるものだと
言い出し、すぐに二人の妹に祖母を引き取ってくれるように頼んだ。
しかしながら、自宅から離れた場所で店をしている叔母たちに祖母を引き取れるはずもなかった。
祖母が認知症と診断されたのは平成12年。介護保険制度がスタートした年だった。
叔母の一人が区役所に相談してすぐに祖母の都内のグループホームへの入居が決まった。認知症とは言え、要介護1の状態だったので日によっては何の問題もなかった祖母はグループホームの入居日まで嫌がっていたが、娘たちの「仕方ないでしょ」の言葉に諦めて入居した。
無事に祖母がグループホームに入居した2日後に我が家に電話がかかってきた。
電話はホームの責任者からで祖母の左足がひどく腫れあがっていて歩行も
ままならないので、グループホームでは世話できないという内容だった。
すぐに祖母の様子を見に行ったが、数日前までなんともなかった足がパンパンに
腫れあがっていて本人もかなり痛がっていた。すぐにもう一人の叔母のツテで
隣の市にある病院に連れて行ったところ、入院を受け入れてもらえることになった。
それから数カ月後、それまでは総合病院だったその医療機関が老人専門病院に
組織変更することになった。その頃には日本中のあちらこちらで老人の入院まち、
入居まちが騒がれるようになっていて大きな社会問題になりだしていた。
祖母と同時期に入院していた老人たちも程度が軽症ということでどんどん退院
させられていった。祖母が入院していた病院は叔母の義兄が事務長を務めていた
おかげで本来ならば退院させられるような状態であったにも関わらず、
強力なコネのおかげで継続して入院させてもらえていた。最終的に祖母は
その病院に5、6年お世話になったと思う。その間は母と叔母たちが数週間おきに
お見舞いに行っていたが、いわゆる「介護」というのは全て病院任せだった。
そして祖母の入院とともに、あれだけ大騒ぎしていた母の耳鳴りはあっという間に
解決し、以前と同じように外出、泊りがけ麻雀、年数回の海外旅行と
母の勝手気ままな生活に戻っていた。