1.主人公に「同情」出来ない

2.紋切り型の二元論、そして差別的な反差別、その薄っぺらさ

3.脚本上の諸々の難点

4.まとめ

 

 かなり滑り倒してる映画だと思うのは私だけだろうか。こんなにもイライラさせられたのは私だけだろうか。最初の10分あたり、「ズートピア」にジュディが来るまでワクワクさせられたのは間違いない。しかし、徐々に滑り始め、30分あたり、ネズミの街のシーンでジュディが盗人を追いかけて暴れるシーンに至ると、私は完全に映画にノレなくなった。どこか違和感を覚える。反差別を謳っておきながら、どこか根底に差別の気配があるのだ。

 

1.主人公、ジュディに共感出来ない。

 

 地元から出るまでは分別のあるキャラクターだという印象を受ける。正義感もあり、心配する親の言い分を撥ねつける訳でもなく、ちょっと受け入れて親を宥める。世間との適切な距離感、自分の位置をわかっていて、良いやつだ。

 しかし、まず13分50秒、受付のトラに「カワイイ」と言われてジュディが「自分と同種以外からカワイイと言われるのはちょっと……」とか言う件がある。

いやちょっと待て、お前可愛いんじゃボケ

 いやまあわかるよ。黒人同士がニガーって呼び合うからってその他の人種がニガーって呼んじゃいけないとかね、そういう話ね。

 ただ少なくとも、この映画において主人公ジュディは可愛いと思われるような造形(ベビースキーマ)であり、そしてそれが大衆ウケするために狙われたものであるのも明白である。そうしていながら「可愛い」を否定するこの件は、「主人公が一人前の警察になる」という本筋には関係がない上に「ニガー呼称問題」を想起させる為の、つまり社会問題を提起する為のギミックでしかない。まずそこの「ひずみ」に怯んでしまう。

 

 次。親子(ニックとおっさん声のフェネック)にアイスを買い与えるが、2人は実は親子ではなく、ジュディはニックの金稼ぎに利用されていたことがわかる。ここまではいいとしよう。

 しかしその後、ジュディはニックに付き纏い、ニックに散々馬鹿にされる。ジュディは言い返す。25分20秒。「私の将来を決めつけないで。あんたなんかアイスの詐欺師にしかなれない癖に」

お前も決めつけとるやろがい

 私がおかしいのでしょうか。そもそも、ニックが諸々の許可を取ってる時点で取り付くシマはなく、その後はジュディが持つ、個人的に裏切られたという思いでしか動いていない。「私の将来を決めつけないで」それはその通りである。しかし、追いかけてまで言う必要を感じない。そもそも、赤の他人、それも(少なくとも現状)正当性があるニックに対して「あんたなんかアイスの詐欺師にしかなれない癖に」とまで言い返す必要があったのだろうか?

 

 次、28分30秒、ジュディは泥棒に偶然遭遇し、駐車違反取り締まりの職務を放棄して、泥棒を追いかける。

 なんて素晴らしい幸運。自分の力を見せつけるチャンスだ。ムカつく上司から割り当てられた駐車違反係のチョッキを脱ぎ捨て、走る。その爽快感。車で急行した同僚に走りながら告げる。「私の事件よ。ホップス巡査が追跡中!フッフー!」振り返って拳を突き上げる。(一瞬中指立ててるのかと思った)いいですね。問題はその次だ。29分00秒。泥棒がネズミの街、リトルローデンシアに逃げ込む。ジュディもそれを追って街中に入り、泥棒を追いかける。その後はこうだ。

  • 1ネズミのスケールの道路を二匹が走る。泥棒の足がネズミの車にすっぽりハマり、まるでローラースケートのように道路を走っていく。
  • 2泥棒がマンションから線路に飛び乗る。その際マンションがドミノ倒しのように倒れていく。ジュディはマンションが倒れないように蹴り返す。
  • 3電車の上に乗った泥棒。ジュディはビル同士の連絡管にぶら下がり、泥棒をぶん投げる。
  • 4道路の上に転がった泥棒。追ってくるジュディ。泥棒はジュディに向かって街のオブジェである巨大なドーナツを蹴って飛ばす。
  • 5ジュディはドーナツのオブジェをキャッチし、泥棒をドーナツの穴にハメて捕まえる。
  • 6ジュディは警察署に泥棒を街のオブジェのドーナツで拘束したままの姿で連れてくる。

……いや、暴れすぎじゃね?

 この一連のシーン、映像的に楽しいギミックが満載である。それが故に殊更こう思ってしまう。

「ネズミの街だったら何してもいいんか?」

 これは登場人物達が暴れている事だけに対して思うのではない。

スタッフ達が、映像的ギミックを凝らす、登場人物を暴れさせる場をネズミの街に選んだという事に対して、そこはかとなく差別を感じてしまう。ネズミという弱い者の街では、何をしてもいいのだろうか?

 弱者の街=治外法権という構図。

 ディズニー、世界的企業たるもの、少なくともあんたらがそれを容認してはいけないのではないか。

 弁明するが、私が普段からこんなにイチャモンつけながら映画を見ている訳ではない。私がこう思ってしまうのは、この映画が何度も何度も差別問題を提起するからであり、差別問題とリンクしやすい頭にさせられているからである。そしてその癖してこの映画がこんなだからである。私だって普通に映画楽しみたい。でもゴタゴタゴタゴタずーっとそれ言ってんだもん。私は悪くない。

あとドーナツ返せよ普通に。手錠あんだろ。

 

 とりあえず最後、35分45秒、ジュディはニック自身の証言を得て、ニックの脱税を暴く。ジュディはニックを自分の捜査に協力させる。

 まあ、それで行方不明者の証言を得るのはわかるよ。ただの一度しか会ってない赤の他人連れ回して捜査協力させてええんか?

 いや超部外者やん。なんでやりこめて得意げなん。アイスの件は君が勝手に金払っただけやん。過去にいじめられたキツネと同じ種類だからか?キツネが狡賢いとされるからか?差別やんそれ。アイスの時からそうだけど、

 なんか、なんでそんなニックに志向性あんの?

 分からない。

 

 等々……

 これらの理由によって私はジュディというキャラクターに共感出来ない。

 もっと直接的な言い方をすれば、私はこの主人公を愛せない。

 だから映画にもノレない。

 

2.前提となっている二元論の問題点、それらの帰結

 肉食動物と草食動物、田舎と都会、上司と部下、警察と犯罪者、野生と理性、等々、様々な対比がこの映画では用いられている。全ての対比がお粗末という訳ではないが、特に気になる点を2点挙げる。

 

肉食動物と草食動物に関して

 雑食動物は?いやまずキツネって、肉食に近いけど厳密には雑食よな?

 ……まあまあ、一旦、肉食動物と草食動物に別けるというのは受け入れましょう。基本的に肉食なら肉食、基本的に草食なら草食。良しとしましょう。カバは?度々動物最強説に挙げられるカバは?肉食=強い。草食=弱い。という安直な構図はいとも簡単に崩されるのではないか。カバに限らず、サイやゾウ等、別に草食動物だからと言って弱くはないだろう。重箱の隅をつついているように見えるかもしれないが、それは違う。なぜならこの映画のテーマの一つは差別問題であり、それは多様性を認めることに繋がる。この映画はまず前提として多様性を排除していないか?動物には多様な食性がある。それでいいのではないか?分かりやすく万人受けする構図であることはわかるし、それが故に人気があるのもわかる。映画は誰でも楽しめるべきだと思う。ただ破綻してんだよテメー。

 

野生と理性に関して

 これは人によって意見が分かれるかもしれない。しかし私は少なからず疑問に思ったので挙げる。

野生と理性は矛盾するのだろうか?

 映画冒頭、動物は進化し、理性を獲得した事によって、肉食動物と草食動物の共存が可能になったことが説明される。理性的であることは先進的な正義で、野生的であることは時代遅れで悪と見做される。まあまあ、良かろう。

 55分57秒、ブラックジャガーが「野生化」し、ジュディは応援を呼ぶ。駆けつけた署長は言う。「野生?石器時代じゃないぞ、あり得ん」英語では「あり得ん」の部分はこうだ。「Animals don't "go savage".」この映画において「野生」は、過去の世界にある、正体不明な領域として描かれるが、果たしてそんなことがあり得るのだろうか?後に「野生化」の理由は毒を撃たれたからだと説明される。では毒自体が野生化の原因そのものなのだろうか?そうは思えない。毒はあくまでも、野生を引き出す作用があるものであり、野生そのものは全ての動物に内在しているのではないか?映画冒頭から「本能」「DNA」といった用語が使われており、それ自体は存在することを示唆している。それが故に映画終盤、ジュディのセリフ「努力を、より良い世界のために」しなければならないのではないか?そうであるならば、野生、本能、DNA自体は認めた上で努力しなければならないのであり、野生やそれらを悪と見做し、過去に追いやることは適切なのだろうか?それ自体はきちんと認めなければならないのではないか?

 以上はあくまで、映画内部で起きた事だけを参考にした論理である。

 話の風呂敷を広げ、分かりやすく実社会に準じた話に置き換えよう。

 創作物と現実は違うと言いたがる方もいらっしゃるだろうが、そうはいかない。何故ならば、全ての芸術作品、美術品は現実の模倣に過ぎないからだ。なぜそれらに価値があるのかというと、それらは実生活から切り離され、対象化され、客体化されていることによって、人が普段生きている視点では気づかないことを気づかせてくれるからだ。映画であれば、客はスクリーンと「切り離されて」おり、カメラが撮ったもの、つまり、フレームによる制限、そして時間の制限がある。他にも、絵画であれば、まず時間はなく、フレームがあり、画材によって表現され、客と「切り離されて」いる。演劇であれ、写真であれ、彫刻であれ、音楽であれ、はたまた、ボクシングであれ、古代ローマの奴隷の殺し合いであれ、常に娯楽や芸術は、客と切り離されている。客は「安全圏」から模倣により、現実を感じることによって、意識的にであれ無意識的にであれ、現実を理解する。これがカタルシスであり、いわゆる芸術体験なるものである。そして時には、一つの答えを教えてくれることもある。パラサイトのラストシーンなどがその典型ではないか?細々した話になったが、端的に言うと、ストーリーのある映画は、全て人間のお話だ。ロボットもののロボットがいかに人間らしく描かれることか。(ドラえもん、ウォーリー、はたまた車のカーズも!)ファンタジーものであれ、描かれるのは魔法ではなく、人間ドラマなのである。ライオンキングやスターウォーズなんて、人間の神話を基にしてるんだから!(ライオンキングはジャングル大帝もね)

 さて、現実において「野生」は過去にしか存在しないものだろうか。ロシアのウクライナ侵攻、アフガニスタンにおけるタリバンを中心とした紛争、ソマリア内戦、メキシコの麻薬組織と警察の紛争、インドとパキスタン、イスラエルとパレスチナ……それらの地域で行われていることは、「savage」そのものではないのか?わかりやすく国家レベルの話を持ち出したが、それに限らずとも、殺人、強姦、盗み……それらの犯罪行為が行われていない日があるだろうか。それらは今現在、現実としてある話であり、過去に追いやることは明らかに不可能ではないか?

 ズートピアで語られることの前提は理性である。しかしそれは違う。前提にあるのは本能であり、野生である。野生が理性を扱うのだ。理性とは何か。それは人間という種が繁栄する上で、つまり生存戦略として使われ、発達してきたものであり、その根本にあるのは、生命としての繁栄を目指した、「本能」ではないか。もっとわかりやすい例を出せば、人が怒って理屈を捲し立てる時、「怒った」から理性によって論理を立てるのだ。この文章も「イライラ」したから私は書いている。

 私からすれば、野生を過去に追いやることは、全く現実離れした、無価値な理想主義であり、人間(理性とも置き換えられる)中心的で、意味がわからないことである。

はっきりと野生を認めた上で、理性的であろうとせねばならないのではないか。この映画は曖昧に毒のせいにして、野生を「はっきりと認める」件が存在しない。

 和辻哲郎の『風土』を参考に風土、そして宗教の違いから人間中心性を語ることもできるが、あまりに脱線しすぎるのでやめる。

 とにかく文章量からして、私がこの点にかなりイラついていることだけは明らかだろう。

 

差別的な反差別、その薄っぺらさ

 前述したが、この映画はまず前提として多様性を排除していないか?

 これに尽きる。紋切り型の二元論、その線の上にしか存在出来ないキャラクターは必然的に形式的で象徴的になる。もはや多様性もひったくれもない。

 他にも30分あたりのネズミの街でのチェイスシーンや、草食動物と肉食動物の対比の成立してなさ、野生を過去に追いやり、結局何を言うのかと思えば、「努力しよう」

そうだな!諸々前提がトチ狂ってるけど。

 そして滑り倒したまま大団円、お祭り騒ぎ。この映画のラストシーンにライブを入れるのは相応しいとは思う。観客が一体化するから。

ただ、滑ってるけどな。

 

3.脚本上の諸々の難点

 これははっきり言って重箱の隅をつつく作業でしかない。イラついているので書くが。

 

1.ニックは何故ジュディの言いなりなの?

 56分49秒、ニックはジュディの肩を持ち、署長に反論する。何故ニックが肩を持つのか、後に説明されるが、ニックも差別された過去があったのだった。うん、まあ、それはわかるんだけど。それまでにいくらでも実力行使でペンを奪い、逃げ出せたのではないか。ナマケモノで時間食わせるとか回りくど〜いなやつだけじゃなくて、なんかもう少しそういった直接的な努力が出来たのでは。ニック自身もこの「警察ごっこ」をどこか楽しんでいる風な描写があればそこまで違和感はなかっただろう。

 

2.なぜミスター・ビッグはニックすらも救ったのか?

 50分08秒、ミスター・ビッグはジュディが娘を(あの忌々しい)ネズミの街で救った事を知り、ジュディを凍らせるのを止める。ニックは関係ないよね?道理で言えば、恨みしかないニックは殺す……くない?ニックが、ネズミの街でジュディがミスター・ビッグの娘を救った件にも実は関わっていた、とかなら良い。

 

3.行方不明者が14人?

 参考までに日本の年間行方不明者数は、2021年、7万9218人らしい。東京に日本の人口の10分の1が集まっているので、東京の行方不明者数は大体8000人くらいなのだろうか?よう知らんけどさ、あの街の行方不明者数が14人?ちょっと少な過ぎねえか。行方不明者の中で、その14人に何か共通点がある、例えば、役所の人間限定、とか、とある組織に関わっていた、この時間とか、そういうのがあればね。肉食限定だとちょっと少ないと思うけど。

 

4.肉食動物だけが野生化している事実を公表すべき?

 1時間07分16秒、フクロオオカミの行き先にたどり着いたジュディとニックは、市長と研究所の職員の会話を聞いてしまう。原因を追求しようとする市長に対し、職員は、「重大だ、公表すべきです」と抜かす。いやあかんやろ。え、ちょっと考えたらわからん?絶対大ごとになるやん。原因もわかってない訳だし。え?

 

5.毒に気づくまでの経緯

 1時間19分02秒、警察官を諦め、地元に帰ったジュディ。ウサギが野生化した事実を聞き、野生化の原因に気づく。ここは所謂第二ターニングポイント、四幕構成で言う四幕目、1:2:1の三幕構成で言う三幕目、序破急の急、起承転結の…とにかく、最後の件、アベンジャーズでいう「アベンジャーズ、アッセンブル!」が始まるシーンである。些細なことだし、個人的な好みかもしれないが、ここは主人公の積極的な動きからそのきっかけを得て欲しかった。今のラインは、諦めて地元に帰ったら、毒に気づいた。であるが、一度は諦めて地元に帰ったものの、諦めきれずに調査をしていたら、ひょんなことから気づく。といった風に。その後ジュディはニックを探しに積極的な動きをするのだが、やはり毒の存在に気づく所が積極的であって欲しかった。ただ、それをやるとテンポが悪くなり、おもしろポイントであるジュディとニックの和解というドラマに時間を割けなくなるというデメリットもある。だからまあ、好みかもしれない。

 

4.大体以上がズートピアのイライラさせられる点である。

 なぜこんなにも私がイライラさせられたのか、それは単にクソクソポイントがあったからというのもあるが、それだけではない。冒頭10分だけ見るとテンポ良くてすげー面白そうなのである。ジュディのこと愛せないとか書いたけど、ぶっちゃけ可愛いし。ニックも可愛いし。(肉食、草食の区分に関してはその時点では一旦受け入れる、だって映画ってそういうもんだから!魔法は一度きりってね。ブレイク・スナイダーも言ってるよ)マーベル買収や、とりあえず精神で差し込まれるポリコレ等、諸々思う所はあるが、別にディズニー映画全般が嫌いなわけでもない。金かけて人を楽しませる映画を作ってるんだから。ただズートピアはあまりにも私の琴線に触れた。飛び火させるが、DCのヒーロー映画にも似たような感覚を覚える時がある。結局アメリカの田舎人向けの商売でしかないのだ。ポリコレ的なものに直接的に接近したものの、結局扱えてないじゃん。クソが。何が「Zootopia」だよ。トピアってんじゃねえよ。バーカ!

 

さようなら。

シンゴジラで一番好きなシーンはゴジラがmop2を背中に受けた後who will knowが掛かり、東京を焼き、米軍機を撃墜し、内閣総辞職ビームと共に東京を焼き薙ぎ払い、ゴジラが目を瞑るシーン。そのシーンで必ず泣きます。泣く事は健康にいいと聞くので定期的にシンゴジラを見て泣く。あと地下鉄の階段の人混みの中にいる尾頭さんがすごい可愛い。
 

 

 何故この件を今になって書くのかというと書きたくなったからです。遅いね。
 風立ちぬとシンゴジラの間には非常に緊密な関係があると思う。パヤオと庵野仲良さそうだし。この件は宮崎駿と庵野の過去作品も引っ張ってきて考えてみると面白いと思います。以下私見ですが宮崎駿の作品の中でも人間嫌いが色濃く出ているのは、ナウシカ、もののけ姫、風立ちぬ。ナウシカは漫画版から引っ張る事にして。この3作品のテーマに共通して「争いを起こす人間」というものがありますが、それぞれ主人公達の「争いを起こす人間」に対しての処し方が違う。ナウシカはクシャナの父親、兄弟が悪として描かれた上、よくわからない形のラスボスを倒し、最終的に悪者はいなくなり所詮人間共がまともに生きるのは無理だからナウシカとエスパー的少年が英雄として世界を取り仕切ります、とかいうある種独裁的なプラトンの哲人政治的な事を言い、


 もののけ姫では絶対的な悪というのは登場しない。登場人物それぞれに思惑があり、故に争いになってしまう。ジコ坊は悪役か、と言われれば難しいです。所詮下請けですし、最後はアシタカとサンが怒った神を鎮める事に成功し、アシタカは村の中で生き、サンはきっと森の住人と生きたでしょう。ナウシカと比べるとずいぶん権限は下がっています、アシタカからは専制的な英雄を見いだせません。


 風立ちぬですが、以上にある二つと比べると英雄という感じはしない。どちらかと言えば二郎は時代、戦争という不条理な運命の中を生きる一個人で、以上二つのような民衆、流れに対する英雄としての影響力はなく、菜穂子と二人して時代に巻き込まれています。その中で生きるという強い意志を見いだしたのが風立ちぬ。


 宮崎駿は、人間は俺が仕切る→人間はまあ俺がいい方向に導こうね→ゴミみたいな人間ばっかだけども頑張って生きるという風に推移しています。根底の生きる、というテーマは一貫してるけども。もののけ姫が一番あやふやというか、中間期だと思っています。
 

 庵野はエヴァのアニメ版の中で風立ちぬと同様の答えを出しています。ちゃんと表現されるのは旧劇ですが。旧劇のラストは個々人としての人間がいなくなった後、シンジが他人の中で生きて行く決意をします。まるでナウシカからの風立ちぬのようです。宮崎駿がナウシカで人間を滅ぼした(支配した)後風立ちぬで人間の中で生きる決意をしたのと同様に、庵野はエヴァで人間を滅ぼした後人間の中で生きる決意をしている。庵野にとって「争いを起こす人間」というのは人類、全ての自分以外の存在でした。


 シンゴジラと風立ちぬが似ている所は不条理(戦争とゴジラ)に対して登場人物が翻弄され、生きる態を描いた所だと思う。シンゴジラの最終場面、第一小隊がゴジラに破壊された後、蘭堂が強く目を瞑りまた目を開くシーンは目的に対する強い意志を感じます。

 

 良いブログがあったので抜粋して引用します。

 引用元 http://metatag.blog.jp/archives/65975500.html

以下引用

シン・ゴジラは風立ちぬへの返歌なのか

シンゴジラは本当によく出来た映画だった。
普通の感想はネットにたくさんあるので、探しても見つからない「風立ちぬ」との関係を考える。
こういう話をするとよく勘違いされるが、物語の本筋がこれだと言っているわけではない。
牧博士が奥さんのことで何かあり、研究を進めた結果ゴジラが産まれた、とか
そういうストーリーがあることは承知している。
しかし、その物語を組み立てる上で、意識的あるいは無意識的な意図があることも確実と思う。
なぜ「風立ちぬ」なのかは言うまでもなく、庵野秀明と宮﨑駿の関係があるからだ。
宮﨑駿があれだけの引退作を作ったのに、庵野にその影響がないとはとても考えられない。」

 

「巨大な2つの名作を通じた壮絶な師弟のやりとりの概要はこういうことじゃないかと予想する。
宮﨑駿
「俺は良いアニメが作りたくてひたすら作ってきた。結局それがよかったのかはわからない、俺は好きにしたからもう辞める。庵野はまだ生きて好きにやれ。」
庵野
「いやぁ、宮さんに言われたら断れない。僕もまだ自分の理想を追ってみます。宮さん(=牧博士=ゴジラ)が巨大すぎてアニメ界は焼け野原になっちゃいましたけどね。」」

引用終わり。

 

 宮崎駿は引退撤回しましたけどね。この方のブログは2016年9月のものなのであしからず。

 

 師弟関係について、なるほどなと思いました。「生きる」に向かっていく事を前提に描かれたシンゴジラは風立ちぬの延長線上にもあるのかもしれませんね。

 

 

宮崎駿と現実

 風立ちぬが嫌われる理由として「ファンタジーじゃない」という意見がある。

 宮崎駿は今まで子供達の逃げ場、自身の逃げ場、桃源郷としての映画作りのスタンスがあった。対して高畑勲はフィクションの中に現実の辛さ、痛々しさを描いた。別離は当然である。

 風立ちぬは善悪を超越して現実の辛さを堪える、いわば現実を認める作品だ。現実をファンタジーに飛躍させてきたこれまでと違い、現実から現実へ向かう作品だ。宮崎駿は段々現実、高畑勲の扱うテーマに接近していると思う。