注意はじめに
これは、私がひとつのワークを通して感じた“私の中の旅”のようなお話です。
感じ方は人それぞれでいいし、どんなふうに受け取っても大丈夫。
もし途中で「今は読むのしんどいかも」と思ったら、無理せずそっと閉じてくださいね。
どんなふうに受け取っても大丈夫。
あなたのペースで読んでもらえたら嬉しいです二重丸
外に木がある窓

自分を愛でるって、難しいアセアセ

「自分を愛でる言葉を10個ピックアップしてみましょう」
そんなワークをしたときのこと。

一つも、自分を褒める言葉が浮かばなかったハッ
代わりに出てきたのは、
「誰かに何かをしてあげる私」ばかり。
私の価値は、“役に立つこと”の中にしか感じられなかったのかもしれないもやもや

他の人が自分を褒めている言葉をメモして、
それを自分に当てはめようとしたけど、
すぐに胸の奥からネガティブな声がざわざわと湧いてきたギザギザ

「いやいや、そんなことないよ」
「むしろ、全然逆だよね」

自分を褒めることが、こんなにも心地悪く感じるなんて、
ちょっとしたショックだったガーン

「褒めないとダメなの? 褒められる私じゃないといけないの?」
ガイドの方の「ただ存在を愛でるだけでいいのよ?」という言葉。
本当はやさしい響きのはずなのに、
「そうしなきゃダメなの?」
「それができない私は、どうなっちゃうの?」と、
どこか不安が押し寄せてくる。

できない私は成功しない・・期待される“在り方”
そんなことまで頭をよぎる自分に気づいて、
また胸がきゅうっと苦しくなった。

思い出せない“可愛がられた記憶”
「自分を愛でるって、親が子を可愛がるような気持ちなんだよ」
そう言われたけれど、私にはそれがうまく思い出せなかった。

代わりに思い出したのは――

「見て!できたよ!」と伝えても反応のなかったこと。
賞をもらっても、ただ淡々としていた親。
父から「不細工」と言われて育ったこと。
(今なら、それが父なりの偏った愛情表現だったと理解できるけれど)
母と娘の白黒写真
担任の先生から、「お友達があなたのこと嫌なんだって」と告げられて、ショックで胸が潰れそうになった日
そして、妹だけが可愛がられて、自分は甘えることすらできなかった感覚。
頑張ってもう一度同じことをしたら、先生に「馬鹿の一つ覚え」と言われた苦い記憶。

そんな記憶が、次々に浮かんできた。

それでも、今の私はこう思える
今の私は、あの頃の親や大人たちのことを少し理解している。
余裕がなかったんだ。
不器用で、愛情の表現が下手だっただけ。
愛し方をちゃんと教えてもらえなかった人たちだったんだ。

だからこそ思う。
親や大人が、周囲や子どもに向ける表現、言葉の大切さ。
それを学び、身につけることができれば、
家庭という小さな社会は、もっとやさしい場所になれる。

それは、私にとって確かな希望であり、
だからこそ、今こうして“伝えたい”という気持ちが溢れている。

私の「愛で方」は、私のままでいい
「リラックスして〜」と声をかけてくれた仲間がいた。
私はリラックスしてる“つもり”だった。
「大丈夫?」って聞いてくれた仲間がいて
私は「大丈夫」だと感じていた。

誰かに責められているとも、自分を責めているとも思わなかった。
私は、ただ「自分を褒めること」に対して、
どう向き合えばいいかわからなかっただけなんだと思う

ずっと、自分をべた褒めすることを避けてきた。
謙虚でいることを、美徳としてきた。
過信しないようにしてきた――
その姿勢も、ちゃんと自分を大切に守ってきた“生き方”だった。

だから、顔を洗うたびに「かわいいね〜」と自分に声をかける、
そんなワークに違和感を持った私も、
それでいいんだと思う。

だって、“今、違和感を抱えている自分をそのまま受け止めている”
それ自体が、もう愛でているということだから。


これは、私がたまたま感じた、ひとつの視点。
同じワークをしても、ふわっと軽やかに受け取れる人もいれば、
違う方向から自分を見つめられる人もいる。

それぞれの感じ方があってよくて、
どれが正解ということも、間違いもない。
どんなふうに感じたとしても、それがその人の大切な感性キラキラ

自分の“愛で方”は、自分のもの。
今日の私のこの気づきが、誰かの心の中で
「それでも、わたしのやり方でいいよね」って
やさしい風になることを願って虹


今はこう受け止めてるけど
明日の朝は、「かわいいねラブラブ」って顔を洗ってる自分がいるんだろうな
笑




「あなたはどんな時に自分を大切にできていると感じますか?」