初めまして、神能木 結貴(かんのうぎ ゆき)と申します。
まずは、私の幼少期からお話しさせていただきます。
これは、私の実話であり、つらい幼少期でしたが、生きることや動物や人を助けることを諦めなかった女性の半生でございます。
私は1978年4月28日に日本にて20時に3日がかりの難産で日本の福岡県二日市で生まれました。
日赤病院で生まれ未熟児でした。
男女20代前半の若い夫婦の長女として生を受けました。
もちろん、生まれた時の記憶はないので、3才からの記憶をたどりお話しを進めさせていただきます。
実家が八百屋を2店舗経営していて、3才から八百屋の看板娘として働かされてました。
ひどい話で、児童労働していました。
なので、日本に3才から貢献しております笑
八百屋のお店のお客さまからは、「お嬢ちゃん愛嬌があっていいね!お店のお手伝いしてえらいね!」ってよく言われてました。
私の心の声は、「私はお手伝いなんてしたくないし自由に過ごしたいの」と思いながら「ありがとうございます。」ニコッと笑顔してました。私が笑顔でいると周りが幸せそうに喜ぶのでそうしていたという表現が正しいと思います。
今、大人になって思えば、遊びたかったろうし、ゆっくり寝ていたかろうと思います。
だから、過去の3才の私を思い描き「よしよし、えらいよ!お店のお手伝いするなんて偉すぎるよ」って心で泣いて3才の私を抱きしめてあげます。
私は、長女で次女、三女、四女、長男と両親の7人家族です。(年子の4姉妹と弟)
私は、すでに3才でお店のお手伝いと妹の面倒を見ないといけなかったのです。
でも、お店のお手伝いをすると1日に500円玉を父が持っていって好きなものを買いに行っていいよと言われて買い物するのが嬉しかったです。
このような状態が中学校まで続き、小学校の時には、お店のお手伝いと家事炊事洗濯を妹たちと分担させられました。
あと私と7才離れた弟が生まれたばかりの時は、おむつ交換やミルクを飲ませたりしてました。
それに付け加えて、勉強ができないといけませんでした。
今、考えても残酷な日々でした。学校から帰ったら、友達と遊べなくて、八百屋のお店のお手伝いでジャガイモの袋詰めやお客さまのお会計、ジャガイモの箱10kg運んだり、1番辛かったのが父と2人でのお店の片付けで重い箱を運んだりして腰が痛かったことを覚えてます。
父親は、何でも、私にさせます。
料理、、出刃包丁を小学生に持たせるて魚のさばき方を母から習ってました。「こんな親っているの?」っと?本当につらいことばかりでした。
父親が、帰宅する時までに炊事・洗濯・掃除ができてないと特に、長女である私が1番、父親から蹴られてフルボッコにされて次女が「それ以上したらお姉ちゃんが死んじゃう」って泣いてました。
私は、サッカーボールのように実の父親から毎日暴力受けて
本当に苦しかったです。
若夫婦だったからか、母親は、あまりかばってくれませんでした。
父親から小学生の時にボコボコにされて家から夜追い出されることも頻繁ありました。
夜、ボコボコにされた身体と心が悲鳴を上げて夜空を見上げてわんわん泣いてました。宗教はしていませんが、誰か助けてくださいって神さまに祈ってました。
私は、ボコボコにされてる時は、グッと痛いのを我慢して、「やめて」とか何も言わずに負けてたまるかと歯を食いしばってました。
私が痛いとか何か言えば、喜ぶと自然に父親の心理を読み取ってました。
それでボコボコにれされて、私をボコボコにする理由を父親に聞くと何も言い返せず、出ていけっと言うだけで、口では私に父親がかなわないと言ってました。
私は、今までの人生でも、口で負けたことがありません。
理論的に論理的に話す少女でした。
その時思いました。父親は、言葉で表現できないから暴力してるし、私に日頃の八つ当たりをしているんだと思ってました。私は、父親のストレス発散のサウンドバックじゃないって思ってました。
小学生では、私が暗い顔をしてると友達が心配するのでいつも笑顔でいました。そう3才の時に学んだ、私が笑顔でいれば周りは、穏やかになったり、嬉しがったりするのでそうしていました。
小学生で大柄な男子がいじめていた時、小柄な私、少女は、
いじめっ子に立ち向かって、なぜいじめているのか問いました。男子は、答えれなかったので、私が「自分がされて嫌なことはしたらいかんよ」って言ったら、男子が「分かった」といっていじめをやめていくというループが小学校や中学校でもあり、いじめをやめさせてました。
そのせいか、中学生の時には学級委員をさせられました。
私は、すごくイヤだと言ったけど圧倒的な多数決で決められました。「あ。。。これが民主主義なんだな」と思い諦めて学級委員をしてました。
まずは、私の幼少期からお話しさせていただきます。
これは、私の実話であり、つらい幼少期でしたが、生きることや動物や人を助けることを諦めなかった女性の半生でございます。
私は1978年4月28日に日本にて20時に3日がかりの難産で日本の福岡県二日市で生まれました。
日赤病院で生まれ未熟児でした。
男女20代前半の若い夫婦の長女として生を受けました。
もちろん、生まれた時の記憶はないので、3才からの記憶をたどりお話しを進めさせていただきます。
実家が八百屋を2店舗経営していて、3才から八百屋の看板娘として働かされてました。
ひどい話で、児童労働していました。
なので、日本に3才から貢献しております笑
八百屋のお店のお客さまからは、「お嬢ちゃん愛嬌があっていいね!お店のお手伝いしてえらいね!」ってよく言われてました。
私の心の声は、「私はお手伝いなんてしたくないし自由に過ごしたいの」と思いながら「ありがとうございます。」ニコッと笑顔してました。私が笑顔でいると周りが幸せそうに喜ぶのでそうしていたという表現が正しいと思います。
今、大人になって思えば、遊びたかったろうし、ゆっくり寝ていたかろうと思います。
だから、過去の3才の私を思い描き「よしよし、えらいよ!お店のお手伝いするなんて偉すぎるよ」って心で泣いて3才の私を抱きしめてあげます。
私は、長女で次女、三女、四女、長男と両親の7人家族です。(年子の4姉妹と弟)
私は、すでに3才でお店のお手伝いと妹の面倒を見ないといけなかったのです。
でも、お店のお手伝いをすると1日に500円玉を父が持っていって好きなものを買いに行っていいよと言われて買い物するのが嬉しかったです。
このような状態が中学校まで続き、小学校の時には、お店のお手伝いと家事炊事洗濯を妹たちと分担させられました。
あと私と7才離れた弟が生まれたばかりの時は、おむつ交換やミルクを飲ませたりしてました。
それに付け加えて、勉強ができないといけませんでした。
今、考えても残酷な日々でした。学校から帰ったら、友達と遊べなくて、八百屋のお店のお手伝いでジャガイモの袋詰めやお客さまのお会計、ジャガイモの箱10kg運んだり、1番辛かったのが父と2人でのお店の片付けで重い箱を運んだりして腰が痛かったことを覚えてます。
父親は、何でも、私にさせます。
料理、、出刃包丁を小学生に持たせるて魚のさばき方を母から習ってました。「こんな親っているの?」っと?本当につらいことばかりでした。
父親が、帰宅する時までに炊事・洗濯・掃除ができてないと特に、長女である私が1番、父親から蹴られてフルボッコにされて次女が「それ以上したらお姉ちゃんが死んじゃう」って泣いてました。
私は、サッカーボールのように実の父親から毎日暴力受けて
本当に苦しかったです。
若夫婦だったからか、母親は、あまりかばってくれませんでした。
父親から小学生の時にボコボコにされて家から夜追い出されることも頻繁ありました。
夜、ボコボコにされた身体と心が悲鳴を上げて夜空を見上げてわんわん泣いてました。宗教はしていませんが、誰か助けてくださいって神さまに祈ってました。
私は、ボコボコにされてる時は、グッと痛いのを我慢して、「やめて」とか何も言わずに負けてたまるかと歯を食いしばってました。
私が痛いとか何か言えば、喜ぶと自然に父親の心理を読み取ってました。
それでボコボコにれされて、私をボコボコにする理由を父親に聞くと何も言い返せず、出ていけっと言うだけで、口では私に父親がかなわないと言ってました。
私は、今までの人生でも、口で負けたことがありません。
理論的に論理的に話す少女でした。
その時思いました。父親は、言葉で表現できないから暴力してるし、私に日頃の八つ当たりをしているんだと思ってました。私は、父親のストレス発散のサウンドバックじゃないって思ってました。
小学生では、私が暗い顔をしてると友達が心配するのでいつも笑顔でいました。そう3才の時に学んだ、私が笑顔でいれば周りは、穏やかになったり、嬉しがったりするのでそうしていました。
小学生で大柄な男子がいじめていた時、小柄な私、少女は、
いじめっ子に立ち向かって、なぜいじめているのか問いました。男子は、答えれなかったので、私が「自分がされて嫌なことはしたらいかんよ」って言ったら、男子が「分かった」といっていじめをやめていくというループが小学校や中学校でもあり、いじめをやめさせてました。
そのせいか、中学生の時には学級委員をさせられました。
私は、すごくイヤだと言ったけど圧倒的な多数決で決められました。「あ。。。これが民主主義なんだな」と思い諦めて学級委員をしてました。