朝8時40分。 

始業まであと20分もあるというのに、フロアの空気はすでにピリついている。 




――カツン、カツン。 




規則的なヒールの音が響く。 背筋の伸びた黒のパンツスーツに身を包み、タイトにまとめられた髪。

その表情は一切の妥協を許さない、氷のような鋭さを帯びている。 




「……小林主任、来た……」 


「今日のチェック、何人落ちるかな……」




 周りの社員たちが自然と背筋を伸ばし、タイピングの手を早めるのがわかる。 

狂犬なんて異名を持つ女。小林由依、主任。 私の、教育係、、、。 






「森田さん、昨日の資料、提出期限は?」

  


 一切の感情を排した、低い声。



 「……あ、あの、今夜までに……」


 「今夜じゃなくて昨日の午後5時が締切だったはず。言い訳があるなら聞こうか。」 




腕を組み、冷たい視線で森田を睨みつける由依さん。



 「……す、すみません。少し残業が続いてて、抜けてました……」 


「なら次は抜けないように自分で仕組みを作って。手帳でもアラームでも。私はあなたの母親じゃない。」 



ビシッ、と空気が割れる音がしたような気がした。 



「はいっ……!」 





森田が縮こまる。その後も、田村さんが再集計の数字をごまかしたことを見抜き、今後一切私のチームにはいらないと言い放った。



 声は冷静なのに、怖いほど重みがある。目も笑ってないし、口元も一切緩まない。



だけど。 


あれ。今、指先震えてた? 

それに、森田に厳しい言葉を投げた後、ほんの一瞬だけ……伏せた目に、影が差した。 


冷徹で完璧で鋭いはずの小林先輩が、時々ほんの時々だけ、ふと何かを堪えているような顔をすることを、私は気づき始めていた。




 「渡邉。」 


「はい。」 



不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。 



「昨日のクライアントの報告、助かった。……ありがとう。」 



その瞬間。 本当に、呼吸を止めるほどの一瞬だけ。 彼女の口元が、わずかに緩んだ。誰にも見えないように、そっと。



 …え。今、笑った……? 

不覚にも、私の心臓が大きく鳴った。 





その日の午後。 

備品の補充のために立ち寄った資料室。


誰もいないはずの静かな空間で、小さな、鼻をすする音が聞こえた。 



…あれ、誰かいる? 

物陰に、スーツ姿の背中が見える。 きっちりとまとめられていたはずの髪が少しだけ乱れていて、その肩は小刻みに震えていた。












「……先輩……?」




思わず声をかけると、由依さんが驚いたように振り返った。




「……!」




彼女は一瞬で顔を背けると、慌ててハンカチで目元を拭い、何事もなかったように口を開いた。




「……何の用?」


「っ……いや、すみません……備品を……」




声が、震えていた。

それは、私じゃない小林さんの方。



「……何でもない。出て行って。」


「でも……」


「出て行ってって言ってるでしょ!!!」




資料室に響いた怒声。

私ははっとして立ち尽くした。けれど、その時、確かに見た。



あの冷たい目が、必死に潤みを隠そうとする泣きそうな瞳になっていたのを。



どうして、そんなに切ない顔をしてるの?

完璧で、恐れられていて、あんな異名まで付けられている人がこんなふうに、誰もいない場所で泣く理由。





私……もっと、知りたい……



翌日の昼休み。

会議室では、プレゼンの準備に追われる保乃とひかるが、小声で由依さんの噂をしていた。今日の目、人間じゃない。絶対狼だよなんて笑いながら話している。


私はそれを遠巻きに聞きながら、由依さんのデスクを眺めていた。昨日の姿が、頭から離れない。  

あの震える肩、涙を拭う仕草。




その時あっ、やばっ……!という保乃の声と共に、資料の束が宙に舞った。




「ほ、ほんまごめんな。手元が滑ってファイル落とてしまったわ」


「大丈夫?一緒に拾うよ」


「ありがとう」




私がしゃがみこみ、散らばった紙をまとめようとした時ふと、目に入った。

由依さんのカバンの口が、わずかに開いている。






そして、その中に。









…あれ……?









ふわふわした、ピンク色の丸っこいフォルム。つぶらな刺繍の目に、ふにゃりとした口元。

明らかにぬいぐるみだった。



……嘘……



駅前の雑貨屋に並んでいた、人気キャラの新作グッズ。

あれを、あの狂犬が持っているの……?





「……何してるの、渡邉。」




背後から、低く抑えた声。




「っ……!」



慌てて振り返ると、由依さんがすぐそこに立っていた。鋭い視線を私の手元に向け、すっとカバンを引き寄せる。




「……私物に触るの、やめてくれる?」


「いえっ、その……落ちた資料を拾おうとしただけで……!」




言い訳をする私の声が、情けなく響く。

でも、それ以上に。 由依さんの瞳が、一瞬だけ泳いだのを私は見逃さなかった。 それは怒りでも蔑みでもない。 



 むしろバレたくなかったという、必死な不安。     



…隠してるんだ     



誰にも見られたくない、本当の顔を その日、午後の仕事中もずっと、私の心はざわついたままだった。  




終業後、由依さんは誰よりも早く、完璧な足取りでオフィスを出ていった。

でもその後ろ姿が、どこか寂しげに見えて仕方なかった。     





   

翌朝。 

私はいつもより早く出社した。 

カバンの中のあのぬいぐるみのこと、あの時の彼女の表情。 



気になって、気になって、仕方がなかったから。     

あんな表情、見たの……初めてだったし そしてもうひとつ。 自分の胸の奥で、何かが少しずつ、でも確実に膨らんでいる。     


それは好奇心なんていう軽いものじゃない。 

もっと知りたいという、静かで真っ直ぐな願い。      



その時、まだ私は気づいていなかった。 

この感情の先に、自分が何を望んでしまうのかを。