OSHOより
覚醒――エデンへと向かう道




自分の中に意識の火を創りだすことが香(こう)だ

 アダムとイヴの古い聖書の物語を理解するのがいいだろう。
彼らは天国から追放された。彼らはエデンの園から追放された。これはひじょうに深い心理的な物語だ。
神は彼らに、ひとつの果実以外、欲しいものは何を食べてもいいと許可した。
一本の木には触れてもいけなかったのだが、その木が「知恵の木」だった。
これは不思議だ、神が自分の子どもたちに知恵の木の果実を食べることを禁止したとは! これはひじょうに矛盾して見える。これはいったいどういう神なのか? それに、いったいどういう父親が自分の子どもが賢く、物知りになることに反対するというのか? この物語はたくさんの人たちを困らせた。なぜ神が知識を禁止する必要がある? 私たちは知識にひじょうな価値を置いているが、それは禁止されていたのだ。
 アダムとイヴは動物の世界に存在していた。彼らは至福に満ちていたが、彼らは無知だった。
子どもは至福に満ちているが、無知でもある。
そして子どもは、もし成長しなければならないとしたら、知識において成長しなければならない。ほかに成長の方法はない。
また、もしあなたが無知であったら、あなたは至福に満ちているだろうが、その自分の至福に気づくことができない。
 これを理解しなければならない。無知である時、あなたは至福に満ちていられるが、その自分の至福を感じることはできない、自分の至福に気づくことはできない。
自分の至福を感じ始めた瞬間、あなたは無知の外にいる。知識が入ってきたのだ。
あなたは知る者になった。だから、アダムとイヴはまさに動物として存在した――完全に無知で至福に満ちていた。だがいいかね、この至福もまた、彼らが承知している事実でもなかったということだ。彼らは、それとは知らずに、ただ至福に満ちていただけだ。
 この物語のいうところでは、悪魔がイヴにその果実を食べるようにそそのかしたのだが、悪魔がイヴを誘うことができた理由とは次のようなものだった。
悪魔は彼女に、「もしあなたがこの果実を食べたら、あなたは神のようになるでしょう」と告げたというのだ。これはひじょうに意味深い。この知恵の果実、この知恵の木の果実を食べないかぎり、あなたはけっして神のようになることはできない。あなたは動物のままだろう。そして、だからこそ神は彼らに、この木に触れることを禁止し、許さなかったのだ。かくして彼らは誘惑された!

 この「悪魔」という言葉はひじょうに美しい。インド人にとっては特にそうだ。これがキリスト教徒とは別の意味合いを持つのは、「デヴィル」が、「デヴァ」や「デヴァータ」――神――と同じ言葉、同じ語源から派生しているからだ。「デヴィル」も「デヴァイン」も両方とも同じ語源から来ている。だから、キリスト教の物語は誤った表現、どこか不完全なもののように思われる。ひとつ確かなことは、悪魔自身が反逆的な神、神に反逆した反逆的な天使だということだ。だが、彼自身が神だった。
 なぜ私はこんなことを言うのか? それは私にとっては、世界には神と悪魔というふたつの力など存在しないからだ。その二分は虚偽だ。存在するのはひとつの力だけだ! そしてこの二分はふたつの敵のそれではなく、ひとつの力の二極にほかならない。それが神と悪魔だ。それはふたつの極として働くひとつの力だ。なぜなら、力というものはふたつの極において働かない限り、働くことはできないからだ。
 するとこの聖書の物語は、私にとってある新しい意味をもつ。神が禁止したのは、禁止することによってしか誘惑することができないからだ。もし知恵の木があるということをまったく教えられていなかったら、アダムが他ならぬこの木のことを考えたり食べたりすることがあったとは思えない。エデンの園は大きく、そこには無数の木があった。私たちは他のどんな木についても、名前さえ知らない。
 この木が重要になったのは、それが禁止されたからだ。
この禁止が招待になった。この否定こそが誘惑になった。
誘惑したのは、実際は悪魔ではなかった。
最初に神自身が誘惑したのだ。その言葉こそが誘惑だった――「知恵の木に近づいてはいけない。その果実を食べてはいけない。一本の木だけは禁止されている。その他の木はお前たちの自由だ」。突然、この一本の木がエデンの園のなかで最も重要なものになる。
 だから私にとって「悪魔」(デヴィル)とは、神性なるもの(デヴァイン)――もう一方の極――の単にもうひとつの名前だ。その悪魔が、そうすれば「神のように」なれると言ってイヴを誘惑したのだ。それが約束だった。そして、神のようになりたいと思わない人がいるだろうか? それを望まない人がいるだろうか?
 アダムとイヴは誘惑され、そして彼らは天国から追放された。だがこの追放はプロセスの一部だ。
実際、この天国とは動物的な実存――至福に満ちてはいたが無知な実存――だった。この知恵の木の果実を食べたことによって、アダムとイヴは人間になった。それ以前、彼らはまったく人間ではなかった。「彼らは人間になった」、私がこう言う時、それは彼らが問題になったということだ。
 エデンの園の門の外に出たばかりの時、アダムが最初に言った言葉は次のようなものだったと伝えられている――「私たちはまさに革命のさなかに生きている」。それはまさに革命の時だった。この動物の世界からの追放、この至福に満ちた無知なる実存からの追放ほどの革命を、人間のマインドが再び経験することは決してないだろう。まさにこの時代は、ほんとうに革命的だった。それに比べれば、ほかの革命など比べようがない。最大の革命がそれだった――この追放だった。
 だが、なぜ彼らは追放されたのか? それを知った瞬間、それを意識するようになった瞬間、人は至福の中に生きることはできない。問題が起こらないではいられない。また、たとえ至福の中にいたとしても、この問題がマインドの中に入ってくる――「なぜ私は至福の中にいるのか? なぜか?」と。そして、苦悶を感じることなく至福を感じられないのは、あらゆる感情というものがその対極があって初めて可能だからだ。あなたが幸福を感じることができるのは、あなたが不幸を感じ始められるからでしかない。健康を感じ始めることができるのは、病気を感じ始められる時だけだ。死を恐れることなくして、生命を意識することはできない。
 動物は生きているが、自分が生きていることに気づいていないのは、彼らが死を意識していないからだ。死は彼らにとって問題ではない。だから彼らは生を通り過ぎるが、彼らは人間と同じような意味で生きているのではない。人が生きていて、自分が生きていることに気づいているのは、死のためでしかない。知識と共に対極性が存在するようになり、対極性と共に問題がやって来る。そうなるとあらゆる瞬間が葛藤になる。そうなるとあらゆる瞬間に、人はふたつのものとして宙づりになる。そうなると、二度と再びひとつになることはない。あなたは絶えず分割され、葛藤し、内面の混乱に陥る。
 だから、ほんとうにそれは革命だった――むしろ唯一の革命というべきか、アダムとイヴが外に出たこと、追放されたことは。ほんとうに、この物語は実に素晴らしい。誰も彼らを追い出した者はいない。誰も彼らに命令した者はいない。誰ひとり、彼らに「出て行け!」と言ってはいない。彼らが出て行ったのだ。彼らが意識した瞬間、彼らはエデンの園の中にはまったくいなかった。これは自動的だった。こう考えてごらん。ここに座っている犬が、突然その状況を意識する――すると、彼は追放されているのだ。誰ひとり彼を追放してはいないが、彼はもはや動物ではない。彼はその、動物の状態から放り出されており、二度と再び同じにはなれない。
 アダムとイヴは何度も何度も入ろうと試みたが、彼らはまだその門を再発見してはいない。彼らは何度も何度も探し回るのだが、その門はいつも見つからない。門は存在しない。その追放は全面的で最終的だ。彼らが二度と入ることができないのは、知識は甘く苦い果実だからだ――甘く、かつ苦い。甘いのはそれが人に力を与えるからだが、苦いのはそれが人に問題を与えるからだ。甘いのは、初めてあなたが自我になるからであり、苦いのは、エゴと共にあらゆる病が自分のものになるからだ。それは両刃の剣だ。
 アダムが誘惑されたのは、悪魔が「あなたは神のようになれます。あなたは力を持つでしょう」と言ったからだ。知識は力だが、それを知ったら、あなたはそのコインの両面を知らなくてはならない。人は、ますます生を感じることができ、ますます至福を感じることができるが、死を意識することになる。より至福に満ちることになるが、同じ割合で苦悶しなければならなくなる。それこそが問題、それが人間のなんたるかだ――深い苦悶、二極のあいだの深い分裂だ。
 あなたは生を感じることができるが、そこに死があればあらゆるものが毒される。そこに死があれば、あらゆる瞬間にあらゆるものが毒される。そこに死があるというのに、どうして生きることができる? そこに苦しみがあるというのに、どうして至福を感じることができよう? だから、たとえ幸福の瞬間があなたにやって来ても、それはすぐに消え去る。そしてその瞬間がそこにあっても、その時でさえあなたは、背後のどこかに不幸があること、惨めさがあること、それが隠れていることに気づいている。それはまもなく浮上してくる――遅かれ早かれ。だから幸福の瞬間でさえも、どこかに不幸が隠れていて、近づきつつあるという意識によって毒されてしまう。それはすぐそこの角まで来ていて、あなたはそれに出会わざるを得ない。
 人間は未来を意識し、過去を意識し、生を意識し、死を意識するようになる。キルケゴールはこの意識を「苦悶」と呼んだ。意識を失うことはあり得るが、一時的なものに過ぎない。再びあなたは戻ってくる。だから唯一可能なのは、成長することでしかない――そこから飛び出せるほどの地点まで、知識において成長することだ。飛躍は極端からしか可能ではないからだ。私たちが持っているひとつの極端は、後退することだ。それをすることはできるが、それが不可能なのは、そこにとどまっていることはできないからだ。私たちは何度も何度も前に投げ出される。そしてもうひとつの可能性は、もし私たちが覚醒において成長し、全面的に意識的になった場合には、そこから超越が起こるようなポイントが存在する、ということだ。
 私たちは「知った」、今度は知識を超えた何かを知らなくてはならない。私たちは知識のためにエデンの園の外に出たのだから、この知識を投げ出して初めて、この園に入ることができる。だがこの投げ出しが可能になるのは、後悔によってではない――アダムが追放された門を再び見つけることは私たちには決してできない――私たちが見つけることができるのは、キリストが招待され、あるいは仏陀が招待されたもうひとつの門だ。私たちはこの知識を投げ出すことができ、この意識を投げ出すことができるが、それは私たちが全面的に意識している極点からだけだ。
 人は全面的に意識した時、この「私は意識している」という感じさえ投げ出された時、人がまさに動物のように幸せに、至福に満ちた時(動物は全面的に意識した時に自分が神になるということを知らないのだが)、もしその意識が全面的だったら、その時人は自分が意識しているということを知らずにただ意識している。この単純な意識が入場の開始になる――それが入り口になる。あなたは再びエデンの園の中にいる――今度は動物としてではなく、神として。そして、これは不可避のプロセスだ。このアダムの追放とイエスの入場は不可避のプロセスだ。人は自分の無知から投げ出されなければならない。これが第一のステップだ。そしてそれから人は、自分の知識から投げ出されなければならない。これが第二のステップだ。
 このスートラは意識に関連している。「自分の中に意識の火を創りだすことが香だ」――自分の中に意識の火を創りだすこと!
 まず意識という言葉によって何が意味されているかを理解しなければならない。あなたは歩いている。あなたはたくさんのことを意識している。店を、そばを通り過ぎる人びとを、交通を、あらゆることを。あなたはたくさんのことを意識しているが、ひとつのことだけは意識していない。あなた自身だ。あなたは通りを歩いている。あなたはたくさんのことを意識している。あなたが意識していないのは自分自身だけだ! この自己の意識をグルジェフは「自己想起」と呼んだ。グルジェフは「絶えず、どこにいようとも、自分自身を覚えていなさい」と言う。
 たとえば、あなたはここにいる。あなたは私の言葉を聞いているが、あなたはその聞き手を意識していない。あなたは話し手を意識してはいるだろうが、その聞き手を意識してはいない。その聞き手を意識しなさい。ここにいる自分自身を感じなさい。あなたは確かにここにいる。一瞬一瞬がやって来るが、あなたはまた忘れる。やってみなさい!
 自分が何をしていようとも、内側で絶えずひとつのことをやり続けなさい。それをしている自分を意識していなさい。あなたは食べている、その自分を意識しなさい。あなたは歩いている、その自分を意識しなさい。あなたは聞いている、あなたは話している。その自分を意識しなさい。あなたが腹を立てているとき、自分が腹を立てていることを意識しなさい。怒りがそこにあるまさにその瞬間に、自分が腹を立てていることを意識しなさい。この絶えざる自己想起が微妙なエネルギーを創りだす――あなたの中にひじょうに微妙なエネルギーを。あなたは結晶した存在になり始める。
 普通は、あなたはただの締まりのない袋だ。結晶化もなく、ほんとうの中心もない――ただの液体、どんな中心もない多くの物のたんなる緩い組み合わせだ――絶えず移動し変化しつづけ、内側にどんな主人もいない群衆だ。意識という言葉が意味しているのは、主人であれということだ! そして私が「主人になりなさい」と言う時、私が言っているのは制御する者になれということではない。私が「主人になりなさい」と言う時、私が言っているのは臨在に、絶えざる臨在になりなさいということだ。何をしていようとも、あるいはしていなくても、あなたの意識の中に絶えずひとつのことがなければならない。あなたが在る、ということだ。
 この自分自身という感じ、自分がいるというこの単純な感じが中心を生み出す――静寂という中心、沈黙という中心、内なる主人という中心――内なる力を。そして私が「内なる力」と言う時、私が言っているのは文字通りの意味だ。だからこそ、このスートラは「意識の火」と言う。それは火だ。それはまさに火なのだ! あなたが意識し始めたら、あなたは自分の中に新しいエネルギーを感じ始める――新しい火を、新しい生を。そしてこの新しい生、新しい力、新しいエネルギーのゆえに、あなたを支配していたたくさんの力はただ解体する。あなたはそれらを相手に闘う必要はない。
 あなたが自分の怒りと、自分の貪欲と、自分の性と闘わなければならないのは、あなたが弱いからだ。だからほんとうは、貪欲や怒りや性が問題なのではない。弱さこそが問題なのだ。ひとたびあなたが内側で、自分が存在するという内なる臨在の感じによって強くなり始めたら、あなたのエネルギーは集中し、一点に結晶化し、自己が誕生する。いいかね、エゴではなく、自己が誕生するのだ。エゴとは偽りの自己だ。どんな自己も持たずに、あなたは自分が自己を持っていると信じつづけている。エゴとは偽りの自己を意味する。あなたは自己ではない、それでもあなたは自分が自己だと信じている。

Osho, The Ultimate Alchemy, Vol.2 #1より抜粋