死
当たり前に生きていると死を忘れがちになる
わたしたちは
毎瞬毎瞬に生と死を繰り返しながら
いのちの流れの中にある
わたしたち人間は“死ぬ”という
事実から逃れることはできません。
死をおもうから生きられる
これは生まれて今生きている人なら
必ず行き着く先
職業上
生と死はいつも目の前にあって
死にたい
死にゆく人を
何人も見送らせていただいた
そして
わたし自身も
死にたいと思う瞬間が
定期的に訪れる
そして
それを許している
死にたいという人を
励ましたりもしない
死は何かふれてはいけないようなものに
なっている気がする
わたしは人の死に
出会う度に“己の死と向き合え”と
言われているような気がする
死とは生であり
いのちのめぐりの一部
医療はどこかやっぱり
“助ける”が正義みたいな世界観がある
長年その世界にいながら
わたしはそれが
密かなギモンであり
苦しみであり
悩みでもあった
人は生きる気力がなくなったとき
食べなくなる
そんな自然ないのちの流れに逆らってるみたいで
助けるという名の正義は
誰のためなのだろう
そう思ってきた。
死なせてあげる愛みたいなことって
あると思う。
傲慢にも
わたしが医療従事者である以上
死なせてあげられない苦しみを
生み続けるんじゃないか
そして逆に
眼の前でなくなっていく人をみて
自分が死なせたんじゃないかと
本気で悩み続けてきた
もう死をネガティブなものとして捉える時代って
終わっていいと思ってる。
食べなくなったから
点滴をしたり胃ろうを作ったり
それって誰のだめなんだろう
年を取れば食べなくなるし
生きる気力がなくなれば
食べたくなんてなくなる
それも自然なことなんじゃないかなって
思うし
それを助けることに
何の意味があって誰のしあわせに
つながってるんだろう
それを見守る愛って
あっていいと思っている。
(現場じゃ言えないけど)
人が年を重ねて
死を迎えることは
花が咲いて散っていくことと
何が違うんだろう
かくいうわたしも
死ぬことが怖くないわけではない
でもそれは
我がコントロールできるものではない
でも
死ってそんなに大事で特別なことなのだろうか
そんなに怖いものなのだろうか
死といういのちの流れを
残される人間樣のエゴイスティックな何かで
死なせてあげれないセカイは
本当に“正しい”のだろうか
生きながらにして
死を想うことは
今本当に大切なことだと
わたしは思う。