与えて、与えて、与え過ぎたら、

自分が空っぽになってしまうんじゃないかと思っていました。

 

特に女性って

自分より相手を優先にしようとする傾向の人が多いですよね。

それでね、すごく疲れる。

 

あれ、私、もしかして

めちゃめちゃ消耗してない??

 

その時は、相手のためにと思って

全力で与えているのだけれど

終わってみると、

なんだか吸い取られてしまったような、抜け殻のような気持ちに。

 

あれ、私、どうしちゃったの??

(悲しくなってみたり)

 

あんなに与えてしまって、バカみたい。

(怒りが湧いてきたり)

 

私もそうでした。

何がそんな風にさせてしまうんでしょう。

 

 

模範解答のように(!?)よく聞くフレーズとしては、

「まず自分を満たしてから相手に。

シャンパンタワーのように、自分から溢れさせましょう。」

・・・

そんな風によく言われることが多いのですが。

 

私、どうもしっくりこなかったんです・・・何故?

 

いろいろ考えてゆくと。

『自分自身(=一番上のシャンパングラス)を満たすものは

自分以外の何かから与えてもらうものだ』と思っていたんですね。

自分が全てをコントロールできる訳ではない、外部の何かがくれるものだから、

もしかしたら、いつかそれを与えてもらえなくなるんじゃないか?

急に元栓が止められちゃうんじゃないか?とか

今は満たされているけど、この先ずっと満たされているかは不明・・・など

そんな恐怖が、無意識の中でうっすらと、でも確実に付き纏っていました。

 

具体的には、私の場合は

外部から与えてもらうというのは

マッサージなどで自分が満たされていると感じる時間だったり、

周囲の評価だったり。

そういったものは一時的なものなので、

「私、今は与えられるだけ持ってます(=所有&能力ベース)だから与えます」という感じだったんですよね。

 

でもある時、

「あなたはもっと与えられる、恐れずにもっと与えなさい」

という声が聞こえてきて。

(これは、何も言わずに相手の人とただただ目を見つめ合うというワークをしていた時のことでした。

またこの時の体験は、別の機会に。)

 

その時に、「私は、与える存在です。(以上!)」ってなって。

 

「ゾウは鼻が長いです」と同じような感じで、ただの説明になったのでした。

それ以上説明できる??

 

与える理由は何なのかとか

与えるだけの持ち合わせがあるのかどうか、とか

できるとかできないとかじゃなく、

ただ、「私は与える存在なんだ」という自分を信じることができました。

私は与える存在だから、目の前に誰かが現れたら惜しみなく与えられる、

ただそれだけのこと。

 

そんな風に自分を再定義できた瞬間でした。

 

あなたは、どんな存在ですか??

 

 

 

さて、今日のページ。

(傷つくならば、それは「愛」ではない  

   チャック・スペザーノ博士・著   大空夢湧子・訳より)

 

105日 「忙しさは、自分を無価値感におとしいれるための大いなるたくらみ」

 

本日も、体感的にわかりやすいかな。

 

ー忙しさは、自分に対する無価値感を埋め合わせるために使われ、

そうすることで全ての活動が自分には価値があることを証明するための手段となるー

 

なるほど。

自分の価値を証明するために、忙しくしてしまう。

ということですよね。

それは本当の自分の幸せから離れていく可能性も高いですよね。

 

自分の価値を、行動や能力、結果で計ろうとするのではなく、

「存在そのもの」で価値を感じられれば、自分の価値を証明する必要すらなくなる。