分類する子供
小学生の2年生だったか、そのぐらいの頃の“自由研究”(夏休みにやるアレ)で
「木のかんさつ」
というのをやりました。
基本は葉っぱを集めて押し葉にしてファイリングする“標本モノ”なのですが、今思えば面白いことをしてたなあと思います。
事の起こりは、電車から見た山……というか、
木のカタマリ。
「なんで三角と丸なんだろう?」という思いです。
葉が丸い木は、木の形も丸くて、木が集まった形も丸い。
葉が尖っている木は、木の形も尖っていて、木が集まった形も尖っている。
「ふしぎ!どの木もそうなの?」
と、“葉を集めて木の写真を取る日々”が始まったわけです。
針葉樹と広葉樹も知らなかった頃に“かたち”で分類し、学校でそれらを習ってからは
“どちらにも属さない”
とされるイチョウに夢中になりました。
当時は何にでも名前があり、分類されていると思っていたので“どっちでもないってどういうこと?”ととても不思議だったのです。
私の出した結論は、葉脈が平行ではあるものの二又分岐をする(葉を拡大すると、多くが一度だけ分岐)ことと、形状(扇形は、どちらかといえば丸い)から
“イチョウは、広葉樹である”でした。
……小学生の話です。突っ込まないであげてください。
当時本人なりに一応の結論は出ましたが、「そのうち学校で教えてくれるだろう」と、針葉樹か広葉樹かということはなんとなく放置するようになりました。
学校は「これ以上は難しくてまだ早いから」と色々なことを教えてくれないのが不満でもあったのですが、楽しみでもあったわけです。
その後、中学に上がると学校では当然“裸子植物”と“被子植物”を習うことになります。
そのとき
「裸子植物がほとんど針葉樹と授業で聞きましたが、代表的な裸子植物であるイチョウは針葉樹なのですか?」
という質問を授業後にしたのですが、「イチョウは裸子植物だけど、今は裸子植物と被子植物の単元だから、針葉樹とかは関係ない」という答えのみでした。
「学校では教えてくれないのかな……」といたくがっかりしたわけですが、この先生は
“水素を発生させ燃焼させる実験”(事故があったので最近はやっていないようですが)をしたあとのレポートで、
「水素は燃やすと爆発する」と書くと正解(以下の文を、こう書きなおされました)、
「水素の濃度が高く、酸素が混ざった状態で火を付けると爆発し、試験管には水蒸気と熱が発生した」と書くと
「実験で水素だけを取り出したんだから、酸素は無いでしょ?」
「火がついたんだから熱いに決まってる」
と言った上、「酸素が無かったら燃えないんじゃ……」という質問を黙殺する先生だったので、私は質問する相手を間違えていたようです。
(でも当時の私は『先生は正しい、先生は偉い』だったので、「私は間違ってるんだ」と思い込もうと頑張ってしまいました。←という影響なのか、今でも自分が合っていたのか間違っていたのか、よく『わかって』いません)
田舎の公立中学はこういう先生が理系全範囲を教えて下さるので、立派な文系に育つことが出来ます。
その後興味の対象が郷土史に移り、その過程で“ヒト”に移ったので、今は植物に対しては「大きい木が好き!海より山、とくに、針葉樹林がおちつくなー」程度なのですが、分類好きはあまり変わっていません。
今思い返すと、風景としての森や林から“カタチ”を抽出し、類似性・相似性で分類し、「似たもの同士の、似ていない場所」を羅列すると言う行為によって私は“快”を得ていたようです。
それに近い行為に今も快感を覚える、分類フェチです。
(さすがに『分類はヒトが勝手にやっている行為だ』ということはわかっているので、逆に『勝手に分けていい』と気楽にやっています)
「理科の先生に、こう言われた」と言って(それまで人生のテーマだと思っていた“植物をカタチによって分類する”を否定されたように感じて)泣く私に、池田清彦氏の『分類という思想 (新潮選書)』を渡す親に(それはドウナノ?と思わなくも無いですが)、今は感謝しています。
おかげで池田清彦→養老孟司→哲学→ニーチェ→ショーペンハウアーに心酔という中二病にかかり、痛い10代を過ごしたりしてしましたが(あいたた)、当時読んでいた本は今読んでもそれなりに面白いので、本との出会いは良かったようです。
わかった気になるのが楽しかっただけで、当時も今も、たぶん理解していません。笑
基本的にリアリストな皮肉屋さん(の本)が好きなようです。←これも分類
少し余裕ができたら、今昔の分類学や系統学にも触れてみたいところです。
知の分類史と分類思考の世界と、どっちがいいかなー。


他にも、おすすめがあったら教えてください。
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「木のかんさつ」
というのをやりました。
基本は葉っぱを集めて押し葉にしてファイリングする“標本モノ”なのですが、今思えば面白いことをしてたなあと思います。
事の起こりは、電車から見た山……というか、
木のカタマリ。
「なんで三角と丸なんだろう?」という思いです。
葉が丸い木は、木の形も丸くて、木が集まった形も丸い。
葉が尖っている木は、木の形も尖っていて、木が集まった形も尖っている。
「ふしぎ!どの木もそうなの?」
と、“葉を集めて木の写真を取る日々”が始まったわけです。
針葉樹と広葉樹も知らなかった頃に“かたち”で分類し、学校でそれらを習ってからは
“どちらにも属さない”
とされるイチョウに夢中になりました。
当時は何にでも名前があり、分類されていると思っていたので“どっちでもないってどういうこと?”ととても不思議だったのです。
私の出した結論は、葉脈が平行ではあるものの二又分岐をする(葉を拡大すると、多くが一度だけ分岐)ことと、形状(扇形は、どちらかといえば丸い)から
“イチョウは、広葉樹である”でした。
……小学生の話です。突っ込まないであげてください。
当時本人なりに一応の結論は出ましたが、「そのうち学校で教えてくれるだろう」と、針葉樹か広葉樹かということはなんとなく放置するようになりました。
学校は「これ以上は難しくてまだ早いから」と色々なことを教えてくれないのが不満でもあったのですが、楽しみでもあったわけです。
その後、中学に上がると学校では当然“裸子植物”と“被子植物”を習うことになります。
そのとき
「裸子植物がほとんど針葉樹と授業で聞きましたが、代表的な裸子植物であるイチョウは針葉樹なのですか?」
という質問を授業後にしたのですが、「イチョウは裸子植物だけど、今は裸子植物と被子植物の単元だから、針葉樹とかは関係ない」という答えのみでした。
「学校では教えてくれないのかな……」といたくがっかりしたわけですが、この先生は
“水素を発生させ燃焼させる実験”(事故があったので最近はやっていないようですが)をしたあとのレポートで、
「水素は燃やすと爆発する」と書くと正解(以下の文を、こう書きなおされました)、
「水素の濃度が高く、酸素が混ざった状態で火を付けると爆発し、試験管には水蒸気と熱が発生した」と書くと
「実験で水素だけを取り出したんだから、酸素は無いでしょ?」
「火がついたんだから熱いに決まってる」
と言った上、「酸素が無かったら燃えないんじゃ……」という質問を黙殺する先生だったので、私は質問する相手を間違えていたようです。
(でも当時の私は『先生は正しい、先生は偉い』だったので、「私は間違ってるんだ」と思い込もうと頑張ってしまいました。←という影響なのか、今でも自分が合っていたのか間違っていたのか、よく『わかって』いません)
田舎の公立中学はこういう先生が理系全範囲を教えて下さるので、立派な文系に育つことが出来ます。
その後興味の対象が郷土史に移り、その過程で“ヒト”に移ったので、今は植物に対しては「大きい木が好き!海より山、とくに、針葉樹林がおちつくなー」程度なのですが、分類好きはあまり変わっていません。
今思い返すと、風景としての森や林から“カタチ”を抽出し、類似性・相似性で分類し、「似たもの同士の、似ていない場所」を羅列すると言う行為によって私は“快”を得ていたようです。
それに近い行為に今も快感を覚える、分類フェチです。
(さすがに『分類はヒトが勝手にやっている行為だ』ということはわかっているので、逆に『勝手に分けていい』と気楽にやっています)
「理科の先生に、こう言われた」と言って(それまで人生のテーマだと思っていた“植物をカタチによって分類する”を否定されたように感じて)泣く私に、池田清彦氏の『分類という思想 (新潮選書)』を渡す親に(それはドウナノ?と思わなくも無いですが)、今は感謝しています。
おかげで池田清彦→養老孟司→哲学→ニーチェ→ショーペンハウアーに心酔という中二病にかかり、痛い10代を過ごしたりしてしましたが(あいたた)、当時読んでいた本は今読んでもそれなりに面白いので、本との出会いは良かったようです。
わかった気になるのが楽しかっただけで、当時も今も、たぶん理解していません。笑
基本的にリアリストな皮肉屋さん(の本)が好きなようです。←これも分類
少し余裕ができたら、今昔の分類学や系統学にも触れてみたいところです。
知の分類史と分類思考の世界と、どっちがいいかなー。


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