ネット小説家、石清水信則のブログダイレクト執筆ブログ
『鬱&不眠症』持ちにて気分のいい時しか
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冬鳴く蝉vol.26

 二月十四日、午後四時頃。


 私たちは午後七時に市内のフランス料理屋で待ち合わせることにしていた。


 私は不動産屋の車を借り、幾つかの物件を見て廻っていた。

 三軒目に隣の市を流れる大きな川沿いに木造モルタルだが八畳と六畳にバストイレの、ちょうどよい物件があり、私は手付け金を払うことにした。

 取りあえず杏子に連絡しようと進学塾に電話をかけると杏子ではない女性が出て、今日はまだいらしていないのですが一体どうしたんですか、と尋ねられた。

 今朝、同じ列車で市内に着き、改札を過ぎ、杏子は駅ビルの中にある塾に入っていったはずだった。

 車で現地から市内へ戻り、進学塾で聞いてみたが、どうしたのかはこちらが聞きたい、と言われた。


 何とも言えない嫌な予感がして、電車に乗り、急いでアパートへ戻ってみると、杏子が消えていた


冬鳴く蝉vol.25

「ね、なんか美味しいもの食べたいな」

 杏子の指がしなやかに巧みに編み棒を操り、片方の棒がくるりと頭を振るたび、新しい環が生まれる。

「どうしたんだよ、急に。なんか作ってやろうか」

「ちがう。あのね、もうすぐバレンタインでしょ。私たちも人並みに食事に行ったりしてもいいんじゃない?」

「そうだな、そうするか」

「そうよ。ね、そうしょうよ」

「あ、それで、俺、結構チョコレート好きだよ」

「やっぱり欲しいものなの、男の人って」

「そうだろうな」

「ふうん」

 二、三度頷くと杏子は休めていた手をまた動かし始め、一つづつ、また、環を生み始めた。



冬鳴く蝉vol.24

 二月になった。

 顔のあざもすっかり消え、ようやく仕事を始めた杏子と相談して三月中には引っ越すことにしていた。

 もう指定席にしてしまっていて、杏子は私の膝の間に入っていた。

 私には迷惑だったが、私の手を引き寄せセーターの上から自分の胸に押しあてている。

「ねえ、私の背中に当たっているのはなあに?」

「ベルトの金具だよ」

「あは。やっぱりぃ?」

「なんだよ、それ」

「うそ、うそ。ごめんね。怒った?」

「いや」

 杏子が顔をねじって私を見上げた。

「ほんと、もう気にしないで。しなくても、わたしも全然平気だから」

 胸にあてた私の指の間に自分の指を絡ませてくる。

「汗かいてるよ」

「もういいだろ。手が疲れた」

「だめ。こうしているとすごく落ちつくんだもん」

「そうか」

「そうなの」

 あごに触れていた杏子の頭が徐々に左にずれて行き、私の肩にうなじをのせるとあごをのけ反らした。

 私と目があうと喉から、くふふ、と笑い声を漏らし目を閉じた。

 何がおかしいのか私には分からなかったが杏子は笑い声を漏らし続けた。

 やがて目を開くと、ほんとにもう、とつぶやき頭を戻した。

 私の指を二、三度強く挟むと心配するような口調で聞いた。
「前からそうだったの?」
「いや」

 杏子はまた、ほんとにもう、とつぶやき私の手を強く乳房に押しあてた。


冬鳴く蝉vol.23

 また泣き出してしまった。

 市内の小さな宝石店で、ガラス越しに選んでいるうちは唇を噛みしめ目を見開いて真剣に見つめていたのだが、私がお金を払い外で待っていた杏子にビロード地の小箱を渡すと、それを胸にしまい込むようにしてうつむき、道路にぽろぽろ涙を落としながら私のあとをついて来た。

「そんなに泣くなよ。なんか俺が悪さでもしたみたいじゃないか。それにそれほど高いものじゃないんだし」

 ウンウンと頷きながらついてくる杏子を見ると、涙と一緒に鼻水まで垂らしている。

 ビルの谷間に連れて行きティッシュで顔を拭ってやる。
 されるままに杏子は目をつむり上を向いている。

 私の指が去ったのを感じて杏子は目を開く。
 逆に、慈しむように私を捕らえ続ける瞳の、右にも左にもまだ白目に小さな血痕が残っていた。

「これでも一流企業のサラリーマンだったんだから、このくらいの買い物は平気だよ。残高もまだ百万以上残ってたし」

 杏子は切なそうな目で私を見上げると、こくりと頷いた。


冬鳴く蝉vol.22

 小さく赤い鳥居がぽやっと浮かび上がっている。

 地面の雪を避け、大きく張り出した枝の下に焚き火をつくった。

 中に放り込んでいた焼き鳥の缶詰を棒っきれで手繰り寄せ、軍手をはめて開ける。
 台所の戸棚にあったものを全部持ってきてあった。


 焼き鳥、牛缶、鯨の大和煮、桜の大和煮、鯖の味噌煮。二十個以上の缶詰が赤い炎にあぶられている。
 デザートとして桃やミカンの缶詰もあった。


 杏子は鯨の大和煮を食べながら、ほんっと身勝手よねえ、と捕鯨反対国に文句を言った。

 鯖缶を開けたときに煮汁が飛び散ったが破裂したものは一つもなかった。

 杏子は鯨肉を口の中でもぐもぐさせながら、なんだ平気じゃない、と缶の注意書きに文句を言った。


 好き勝手に文句を言う杏子を見て私が笑っていると、突然鯨缶を地面に置き、ポットから熱いお酒を紙コップに注ぎ私に手渡し、自分も持ち、乾杯の準備をした。

 杏子は真剣な眼差しでラジオを見つめている。


「ップーン。かんぱあい、おめでとお、ごくろうさまあ」

 熱いお酒が胃の中でちりちりとはしゃぐ。
 ちょこんとしゃがんだまま両手で大事そうに挟んで杏子はお酒を飲んだ。

 気付くとこちらを見て、唇を舌先で嘗めちょっと笑う。

 こんな杏子が可愛らしく思えた。焚き火にあてられてか、酔う前から頬と鼻があかい。


 一気に飲んでしまって私が紙コップを差し出すと、お酒、飲むのね、と真顔で言いながらもう一杯注いでくれた。

 “随分”が抜けていたがそういう言い方だった。

「今までどうしてお酒、飲まなかったの?」

「居候だったからね」

「気にしなくて良かったのに」

「これからは気にしないことにするよ」

 恥ずかしそうにちょっと下を向いてから杏子はしっとりと私の隣に座り、肩に頭をのせた。

 髪が耳にくすぐったかったが、肩を抱いた。

 杏子の息が喉元からコートの中に温かく流れ込んでくる。

 軽く引き寄せると、杏子は以外に細い肩をしていた。


 暢子は杏子に出逢うための布石だった。
 暢子から逃げ出したからこそ、杏子に逢えたのだった。

 スナックの男もそうだ。あいつに殴られなかったら、杏子には逢えなかった。

 罪悪感と私憤はそれぞれに残ってはいるものの、今は感謝の気持ちが強かった。



 日の出を待つ間、私と杏子はコートの中でじれったく指を絡ませていた。私と杏子の想いが絡む指の上で踊る。

 夜明け前の薄暗い中で抱き合い、深藍色の海を見つめながら湿った指をふれあうのは、寝てしまうより淫らだった。


 ふと、気が付いて尋ねた。

「杏子、指輪とかしてるの見たことないな」

「うん、持ってたけど・・・」

「持ってたけど・・・で、それどうしたんだ」

「ちょっと。なくしちゃったのよ」



 杏子は知っていた。
 私は知らなかった。

 日本海には陽は昇らないことを。


冬鳴く蝉vol.21

 大晦日だった。

 買い物から戻った杏子は急いで品物を冷蔵庫にしまってしまうと、こたつと私の間に入った。

「俺は座椅子か?」

 下から首をねじって私を見る。

 口元に一杯の笑みをつくって、そうなの、と甘える。
 意外に細く小さな手の中に私の手を包み込み自分の腿に押しつけている。

「ね。今日、神社に行きたいの。もう一つ向こうに岬があるのね、そこにちぃちゃな神社があるの。窓、開けるとみえるよ」

 私の膝を支えに立ち上がりかける杏子を引き留め、尋ねる。

「初詣は明日だろう。それに今から行くったってもう夜の七時だよ」

「ううん、今日って言っても夜中よ。ラジオ持っていって、おつまみとお酒も持っていって、あそこで初日の出を拝むの。まず焚き火をたいて、ラジオ点けてそれで新年になった瞬間、乾杯するの。熱燗で。それでね、朝まで待ってね、初日の出を拝んで、帰ってくるの」


 そんな酔狂なことを本気でするつもりなのか何度も杏子に聞き直したが、杏子は、絶対行く、と言って聞かなかった。
 年末特番を見て、紅白を見て、行く年来る年を見て、それで私は酒を飲みたかったのだ。


 十二月三十一日 午前十一時 私たちは岬の先端に危なっかしく建つ、みすぼらしい神社の前にいた。

 ここまで三十分ほど黒松林の中の道なき道を歩いてきた。

 杏子は何度も来ているように歩いた。


 途中、杏子は幾度も思い出し笑いをし、後ろで私はそのたびに不機嫌になった。

 部屋を出るときになって突然真面目な顔をつくり、ほんとに寒いんだから、などと言って自分のストッキングを私にはかせた。

 鏡の前でブリーフにストッキングという自分の姿を見てあまりの情けなさに行くのをやめかけたが、杏子が拗ねて啜り泣くので、仕方なくここまで来たのだった。

 杏子のストッキングをはいているにも関わらず、寒い。

 枯れ木を探すため懐中電灯を杏子から受け取ったが、円い明かりが細かくぶれる。杏子は寒くないのか、傾いた境内にじっと座ったままラジオを聴いている。

 紙屑を燃やし小枝をあぶっていると、突然背後でけたたましい音がして、火のついたままの紙屑と小枝を手に飛び上がった。

 振り向くと杏子が嬉しそうに笑いながら、巨大な鈴から垂れている荒綱をつかみ私に手を振っている。

「しっぽしっぽ、馬のしっぽだよ」
 手のひらに軽く荒綱を持ち、口を尖らせ私に教え込むように言う。
 杏子がどこまで意味を含めて言っているのか分かりかねたが、鈴もちゃんと二つ付いていた。

 すっ、と綱に向きなおると杏子は、唇を引き締めて真剣な表情をつくり、両手で荒綱をつかんで心配してしまうほど激しく左右に振った。

 海面にぢゃらんぢゃらんぢゃらんとひびいて消えた。

「ああ、おかしい」

 私を見て、けらけら笑ってちょっと鼻をすすって、白い息を吐きながら境内に腰掛ける。

 杏子は暗く冷たく寂しい土の下からようやく這い出すことが出来たようだった。


冬鳴く蝉vol.20

 部屋中に美味しさの香りが漂っている。


 私は煙草を吸うのをやめ、半分で圧し消す。
 魚の、丸い脂の薫りを醤油の香りが包み込み、その間から大根特有の大地の香りが、混じる。

「杏子、凄い、いいにおいだけど、なに作ってるんだ ? 」

 髪を束ね、シュークリームみたいな形にアップにした杏子のうなじに語りかける。
 振り向いて、若干、上目遣いの笑みで私をとらえ、にっ、と笑う。

「今まで、仕事でなかなか時間とれなかったから。ほんとはずっと作りたかったのよね」

「おまけに、俺の世話までしてって、」

「もう言わないで。いいの。あなたが来てくれて、わたし、」

 言いかけて、一瞬顎を突き上げるように上を向いて、鍋に視線を戻した。


 短絡的だが、これが幸せ、と言うものだろうか。
 全ての事象、物事が、在るべきところに有り、治まるべくして収まっている。
 私が今まで感じていた、何となくの自分自身の異物感、世に対する違和感は、いまや、この部屋には一切、絶対、無かった。

 全宇宙にはこの部屋しか、存在していない。
 温かく柔らかく息づく、この世にたった一つだけ存在する、まあるい空間だ。

 そのまん丸い空間のなかに、私と杏子が溶け合いながら存在している。


「はい。出来上がりましたよ。ブリ大根」

 杏子が、こたつへと器を運んできた。
 よく見ると、今まではミカンや煎餅などを盛っていた、漆塗りの大振りの器だ。
 一人暮らしで、大皿などは、今までは必要なかったのだろう。

「なんか凄いな」

「実は、これわたしの一番の自信作。玄人が裸足で逃げてっちゃう、ブリ大根よ」 
「ほう、裸足で逃げてく玄人を一度、この目で見てみたいものだな」

 杏子は、後ろに倒れそうになりながら笑い、頚を斜めに傾げ唇を引き締め笑みの残る中に睨みを効かせた。

「はいはい。そうですか。じゃ、撤収。あなたはビールだけ飲んでてね。私だけ向こうで美味しく頂きますから」

 そう言って一旦置いたブリ大根の器を持ち上げる。
 私は慌てて、杏子の手首を掴んだ。

 杏子と目が合う。
 指先から杏子の体温が流れ込む。
 まるで結婚式のケーキ入刀のように、ゆっくりと、ブリ大根の器をおろしていく。

「ほんとに、もう。素直じゃないんだから、」

 杏子が一瞬、私に、梅干しのようなしかめっ面を見せる。
 そしてゆっくりと、柔和な表情に戻り、言った。

「さ、一緒に頂きましょ」


 これまで、特に酒が飲める年齢になってからだが、色々な店でブリ大根を食べて来たが、それらとは全く違っていた。


「杏子、これ、ほんっと、旨いな」

 杏子が、あっ、と驚いた顔をする。

「ん ? どうした」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」

 そう言うと杏子は箸を置き、私を見つめた。
 ずっとそうしているので、私も何となく眉間の辺りが痒いような感覚になって、聞いてしまう。

「うん。だから、どうしたんだ ? 杏子、」
「だって、私の料理、初めて美味しいって。。。今まで、うつむいてただ黙って食べてるのが普通だったから。ちょっと、、」

 そこで言葉を切って、いきなり立ち上がり私の首に手をまわし、抱きついてきた。
 
 杏子の温かく柔らかな体を背中に感じていた。
 私の耳元で杏子が囁いた。

「言ってくれて。凄く嬉しい、美味しいって」

 私も箸を置き、右手で杏子の頭をなでる。

 ひとつ、ゆっくりと長い吐息を私の首に残し、杏子は戻った。
 少し、瞳が潤んでいた。
 そのままにしておくと、泣き出してしまいそうだったので、話しかける。

「どうやって、こんな風に作ったんだ ? 」


 杏子が言うには、一般に行なわれる『茹でこぼし』をせずに、レモン果汁と塩と大根の皮でブリの身から生臭さを抜いて、丹念に灰汁を取りながらじっくりと炊いて、主に塩で味付けをするのだそうだ。

 醤油は薄口醤油でないといけない、それも香り付け程度に。そして柚子の皮。

 確かに、杏子の作ったブリ大根は、味も見た目も、透明で繊細なものだった。


 私が再び、箸を付け始めても杏子は潤んだ瞳のまま、自分の作ったブリ大根が、私の箸によって次々と口へと運ばれるのを、見つめ続けている。その眼差しがなんとなくくすぐったくなって、つい、また、言ってしまう。

「そう言えば、見あたらないなぁ、」
「えっ ? 」

 不審そうに杏子が私の視線の先をうかがう。
 私は、部屋のタンスの上やベッドの下、台所から玄関まで、隅々を捜す。
 杏子もそれにつられ、薄く怯えたようにあちこちを見回す。

「えっ ? えっ ? 。どうしたのよ、急に ? 」
 私はこたつの掛け布団をめくり、こたつの中を丹念に捜してから、杏子の瞳を見て言う。

「裸足の玄人ってのが、見当たらないぞ」
「へぇっ ? 」
「ああ、もう逃げ出しちゃったあとなんだな」

 不思議そうな表情だった杏子の顔が、微笑みに移り変わり、そして両手で顔を覆って、広大に笑い出した。

「馬っ鹿じゃないの。もう、」


 私も、杏子の笑いの中へ入って行く。

 何もかも、全て満ち足りていた。


冬鳴く蝉vol.19

 杏子は崩れはじめていた。

 わたしが転がり込むまで杏子は一人の生活のなかで気持ちを張りつめ、鏡に映る自分を眺めることで寂しさを紛らわしてきたのだろう。
 しかし突然杏子の生活に紛れ込んだ私をあの日以来、無視しながらも部屋に置き続けた。

 それはあのとき杏子が出来る、精いっぱいの努力と妥協だった。

 今まで一人の胸の奥に隠しておいたものが溶け出してこないようにそれでいて寂しさを紛らすには、あのようにただ私を部屋に飼っておくしかなかった。

 二人分の生活を営むしかなかった。

 杏子が私の前で平然と着替えていたのは、いつかもたれ掛かりたくなるかも知れない私に対する、一種の虚勢或いは牽制だったのかも知れない。


 しかしもう杏子の弧城は崩れ始めていた。

 そのことに気付いたときから杏子は、見られるだけではなく、ただ同じ部屋にいるだけではなく、片時も離れずに杏子を杏子として確認してくれる人間が居なければ我慢できなくなっていったのだろう。

 それを薄々感じながら私は部屋に居て、眺めながら杏子を一枚一枚裸にし続けた。

 あの晩、杏子が話した店の話は真実ではないだろう。

 自分の嘘を見破って欲しかったのではないか。

 嘘も見栄も虚勢もはぎ取られて、本当に裸になりたかったのではないのか。

 私に抱かれることで一人の生活が少しづつ築き上げた弧城から抜け出したかったのではないか。

 しかし私は抱かなかった。ただ抱くのなら簡単だった。

 だが杏子を、彼女が抱えている過去とそれに起因する寂しさを一緒に抱き上げてやれるほどの器量が、私にあるとは思えなかった。

 血液の滴が注射針の先から震えつつ落ちるような杏子の叫びを、非情にも私は波を数えながら一滴ずつ、煙草の煙で払っていた。

 今や崩れ始め、独りで居ることにも二人で居る寂しさにも耐えきれなくなった杏子にはペットとしてではなく、人としての私が必要だった。

 いま私の後ろを隠れるようについてくる杏子は、風に煽られ巣から転げ落ちた雛鳥だった。


 風は、私だった。


冬鳴く蝉vol.18


 私も職を探しはじめた。この二ヶ月間、私の財布は千円札一枚も減ってはいなかった。

 杏子は私が部屋から出て働くのを嫌がったが、これ以上杏子に迷惑をかける訳にはいかなかった。
 私がどうしても行くとわかると、杏子は、市内は私の方が知ってるからとついてきた。

 アパート前の車道に出てから黒松の密生する丘の切り通しを十分ほどで歩き、それでようやくちらほらと商店や古い大きな家などが見えてきた。

「俺達、今まで凄い所に居たんだな」

「私は知ってたわよ」

 両手を後ろ手に組んで私に向かって顎と唇を突き出しながら得意そうに言い、それから私の足元から腰までを見た。

「ジーンズ少し大きかったみたいね。以外に足、短かったのね。ちょっとがっかり」

 道路のアスファルトを見たまま答えずにいると、杏子は胸の前で小さく手を振りながら言った。

「冗談よお、ゴメンね、気にしてたの?」

 がっかりされたことに軽い失意と奥深い安堵を感じながら歩む。下から杏子が覗き込んだままなので何か言わなくては、と焦る。

「大丈夫か、こんなに歩いて」

「うん大丈夫。まだちょっと変だけど」

「変?」

「うん。縫ったとこがしこりみたいになってるの。なんか、裸足の足の裏に西瓜の種、くっつけたまま歩いて入るみたいな。わかる?」

「ケロイド質なんじゃないか」

「なんなの、それ」

「大火傷したりすると皮膚が盛り上がってつるつるに引きつるだろ。あれだよ。体質によって切り傷の跡とか手術の跡とかがそんなふうに残る人もいるんだ」

「じゃ、わたし、それかなぁ」

 ケロイド質であることがいけないことだと受け取ったのだろうか、自分の足元を見ながら口を突き出し、ぽつりと言った。


 駅に着き、電車に乗り込んだ。

 やはりじろじろと顔を見られるのが辛いのか、車内では杏子はずっとうつむいている。
 時折声をかけても、縦か横に頭を振るだけで一言も話さない。

 電車を降りるときも、改札を抜けるときも、私の背中に隠れるようについてきた杏子が、バスターミナルで珍しそうに市内のあちこちを眺める私の袖を、後ろからくいくいと引っ張った。

 杏子は震えていた。うつむき加減にしょんぼりと立っている。

「わたし、帰りたい」

 また電車に乗った。乗客がまばらな帰りの電車のなかでも杏子は顔を上げずただ、ごめんね、を繰り返した。

 わたしと一緒だったからだろうか。


 もう名前を知らなかった頃の杏子はどこにもいなかった。



冬鳴く蝉vol.17

 師走も押し詰まったせいでもないだろうが、私までもそわそわし始めた。

「店、辞めるくらいでどうしてあんな事になったんだ?」

 過ぎたことを蒸し返すようだったが、気になっていたので敢えて聞いてみる。
 春になっちゃうかも知れない、と言いながらはじめたマフラーを編みながら、杏子は困った目でうつむき手を休めた。

「ちょっとね」

 うつむいたまま、またマフラーへ戻る。何となく納得できないまま聞く。

「もう店は大丈夫なのか」

「うん、大丈夫。あんだけのことされたんだもん。もう平気よ。それより、ね。今日、買い物の帰りがけに新しい仕事見つけて来ちゃった。あっ水商売じゃないの。市内の進学塾の電話受け付け。この顔だから驚かれちゃったけど」

「なんて言ったんだ?」

「交通事故でって言ったら、主任さん神妙な顔で頷いていたわよ。もちろん怪我がちゃんと治ってからだけど。お正月明けくらいかな」

「そうか」

「大丈夫。あの仕事して貯めたお金あるから、二人分の年越しくらい、なんとかなるわよ」

 含んだ目で私をじっと見つめそう言うと、マフラーに戻った。