1900 Mantua, Italy イタリア マントヴァ
「このあたりはいつもこんなに霧がたつのかい?」
「Si、Si、セニョール。この時期は特にね。でもご安心を。もうすぐ着きまさぁね」
三方を湖に囲まれた、ルネッサンスの面影を残す美しい街、マントヴァ。
湖から街を目指したいと願ったのは、彼自身だ。
霧で街の輪郭がぼやけて見える。それはそれで、また一興。
ザリと船底が砂を噛み、小さなボートがひと揺れする。
船頭が無造作に板を船縁から岸に渡す。
「足元、気ぃつけてくだせえよ」
「ああ、大丈夫」
荷物をかつぎ、左右に揺れる板をつたって岸に立つ。
晩秋の風にさらされて、岸に沿って植わっている柳の、今は裸の枝がゆらゆら揺れる。
足元に打ち寄せてくる波は透明で、小石混じりの荒い砂が湖底に続いているのが見える。
──ここがマントヴァか……。
感慨にふけっていると、ザッと船底が砂を掻く音がして、ボートが岸から離れるのに気づいた。
「ありがとう!」
「よい旅を、セニョール!」
上げた手をひと振りすると、霧のなかに戻って行くボートから船頭が手を振り返してくれた。
肩の荷物をかつぎ直して、低い土手を上がれば、湖岸に沿って細い土の道が伸びている。
道を辿った先には街を囲むように設えられた石壁。ところどころに開けられたアーチ型の「門」をくぐれば、そこはもうマントヴァの街中だ。
薄い灰色と薄い茶色が絶妙に溶け合った石造りの家々。その間を縦横に走る石畳の道を、喧噪のするほうへと辿る。
広めの通りに出ると、湖からの水気を含んだ薄灰色の空の下、薄暮の街は、早くも灯された、建物の壁にかけられたカンテラのオレンジ色の光に満ちていた。
連なる商店の主人たちの呼び込みと、夕食の買い物に忙しい婦人たちとでにぎわう広場。
アーケードに吊るされた鶏肉やソーセージが頭上に美しいアーチを描き、歩道にはみ出さんばかりに置かれた台の上には、大きなガラス瓶にクリーム色、緑色、赤色のさまざまな形をしたパスタが入れられている。
──食べ物の色彩をこんなにも美しく演出してみせる街は、イタリアだけだ。
商店の前を通りすぎながら、放浪の画家リチャードは思う。彼が生まれて育った英国では、食べ物はただ売り買いするものであり、美しく見せるものではなかったから……。
太陽を雲の向こうに置いたまま、刻々と藍色に変わっていく空。家々の明かりが灯り、カンテラの火が強さを増し、広場がオレンジ色の光で満たされる。
陽気な声、さんざめく空気、行き交うマントヴァーナたちの長いドレスの衣擦れ。
しばらく街のようすを楽しんだあと、リチャードは広場を通り抜けて、脇道への角を曲がった。さっきから空腹を刺激する香りが漂ってきていたその店は、角を曲がってすぐのところにあった。
「オステリア ピノ」と書かれた看板の下の、立て付けの悪い木の扉の隙間から、香ばしい料理の匂いがあふれだしている。
取っ手を引けば、ギグァとなんとも言えない音をたてて開く扉。その向こうには、年季が入った黒ずんだ床と梁と天井が囲む空間に、洗いざらしのテーブルクロスがかけられた木製のテーブルとイスが並ぶ、いかにも大衆食堂の気さくな光景が現われた。
4人掛け、10卓ほどのテーブルは、赤ら顔をした男たちで埋まっている。空気に生魚の匂いが混じっているところから察するに、仕事帰りの湖の漁師たちだろうか。
「お客さん、はじめてだね。旅行者かい?」
空いている席を探して、視線を巡らせていると、傍で声がした。見ると、リチャードの肩ほどの背丈で、横幅は倍ほどある女性が立っている。
「ええ。いい匂いにつられて」
「ひとりかい?」
「そうです」
「んじゃ、ここにどうぞ」
床に荷物を降ろし、勧められたカウンター席に座ると、女性は壁にもたせかけていた黒板をもってきた。
「今日、できるのはこれくらい。お薦めは、かぼちゃとアマレットとパルメザンチーズのトルテッリ・ディ・ズッカ、カワカマスのソテー、野菜とソーセージのワイン炒め、豆とサルシッチャのパスタ……。ワインが進むよ!」
「あ、じゃあ、そのお薦めを適度にお願いします」
「はいよっ! あんた! 注文入ったよ!!」
セリフの後半は、カウンターの奥に続く厨房に向かってかけられた。そこから野太い声が返ってきたところをみると、夫婦で切り盛りしている店ということか。
「まずはワインね」
注がれたのは、ランブルスコ・マントヴァーノ。
「マントヴァに来たなら、まずはこれを味わってもらわなくちゃ」
発泡性のワインを口に含めば、少し甘い。
「はいよっ! まずは野菜とソーセージのワイン炒め。これは店からのサービスね!」
「えっ!?」
「はじめての客に出す、最初のひと皿はサービス! うちのジンクスでね。一度、うちに来た客は、必ず戻ってくるのさ」
バチンと音がしそうな勢いでウインクされる。皿には大振りのソーセージとトマト、ブドウの実、なにかの香草がほかほかと湯気をたてている。
「じゃあ、おかみさん、ワインをどうぞ。僕と乾杯してください」
「承知!」
おかみはほがらかに言うと、カウンターの奥から出してきたグラスを差し出す。それにワインを注いで渡すと、お互いのグラスを触れ合わせた。
「マントヴァへようこそ! あんたのよき旅に!!」
「ヴィーヴァ、マントヴァ!」
ワインを呷り、グラスをテーブルの上に置くのを待っていたかのように、新しい皿が目の前に突き出された。
「だんなさん、トルテッリ・ディ・ズッカ!」
見れば、濃い茶色の巻き毛に黒い瞳の5歳くらいの男の子が、盆から片手で浮かせた皿を、テーブルのどこへ置こうかと迷っている。
「ああ、すまない。ここに置いてくれ」
ソーセージの皿をずらすと、ほっとしたようにトルテッリの皿を置き、ペコリと頭を下げて厨房に戻って行く。
ふと目をやれば、やはり同じくらいの歳の、濃い茶色の巻き毛の女の子が、ほかのテーブルに料理を運んでいる。皿をテーブルに置くその子に、酔客のひとりがなにか言う。困ったような顔をする少女に、別の皿をもって厨房から出てきた、さっきの子どもが勢いよく寄って行き、彼女を客から引き離した。
「あの子たちは、おかみさんのお子さんですか?」
ワイングラスを片手に立ったまま、酔客と子どもたちの一連のやり取りを見ていたらしいおかみは、リチャードのほうに向き直って言った。
「いいや。あの子たちの母親が病気がちでね。もの乞いに来たんで、ちょうどいいと思って働いてもらってんのさ。男女の双子で、フローリオとラリアってんだ。フローリオは気が利くし、ラリアはなんともかわいらしくてね。今じゃ、すっかり人気者だよ」
おかみの視線が動くのにつられて見やれば、客が帰ったあとのテーブルについて、子どもたちが皿を片づけたり、テーブルクロスを振って、パン屑を払ったりしている。
「6つになるやならずだってのに、フローリオは、さっきみたいに妹が酔っぱらいにからまれたりしたら庇うし、自分は食べなくても、母親と妹には食べさせるんだ。ラリアも兄のことを信頼していて、兄の言うことならなんでも聞く。子どもだけどね、お互いを大切にすることを知っている。あの双子の絆は強いよ」
そう言うと、おかみはカウンターのなかに入り、バスケットを手にして出てくると、子どもたちに向かって言った。
「今日はもういいよ! 上がりな!」
汚れたグラスや皿を満載にした盆を掲げて戻ってきたふたりは、それらを厨房まで運ぶと、それぞれエプロンをはずしながら、おかみさんのところへ寄っていく。
ふたりからエプロンを受け取ったおかみさんは、男の子にバスケットを渡した。
「いつも、残りもので悪いけど。早く帰って、お母さんと食べな」
「ありがとうございます、おかみさん。明日も来ていいですか」
「ああ。時間に遅れるんじゃないよ! ちゃんと働いてもらうから、夜ふかしはダメだよ!」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみなさい、おかみさん」
はつらつとしたフローリオの挨拶のあとに、ラリアのかぼそい声が続いた。どうやら、彼女は兄ほどには世間慣れしていないらしい。
「おお、明日も俺たちに給仕してくれな!」
「腹出して寝んじゃないぞ!」
「夜道、気をつけな!」
店の客たちの声に答えて手を振りながら、ふたりは帰って行った。
「いい子たちだろ?」
おかみさんが笑みを含んだ声で言う。
「そうですね」
襟足でザクザク切られた、手入れのされていないくしゃくしゃの濃い茶色の巻き毛。洗われてはいるけれども、ボロ布一歩手前くらいの服。そこからひょろりと出た、細い手足。弱々しい華奢な身体は、まだ親の庇護が必要な幼児のものだ。
しかし……。
──すごい目だ。
ふたりの黒い目は、まるで石炭を割った、その断面のように光っていた。深い深い黒だった。
──あの子たちなら、描けるかもしれない。
肖像画を描かなくなって、もう十年以上経つ。「風景しか描かない画家」、リチャードはそう呼ばれていた。
でも……。
──あの子たちなら……描ける気がする。
* * *
大いに飲み、食べた。うまい料理と、料理によく合ったワインは最高だ。旅に疲れた身体には、なおさらしみとおる。
おかみさんと厨房からたまに顔を出すだんなさんから、マントヴァのおすすめスポットなど、いろいろな話を聞いていたら、すっかり夜が更けてしまった。
おかみから知り合いの宿を紹介してもらい、リチャードはいい気分で店を出た。
秋の夜長の午後10時。明かりの落ちた街には、人ひとりの影すらもない。
肩の荷物を揺すり上げ、携帯用のカンテラをかざして、描いてもらった地図を見る。顔を上げると、広場とは反対方向に歩き出した。
石畳にひとり分の靴音が反響する。
4、5分も歩いたときだろうか。
道の脇になにかが落ちていた。側溝に落ちかけた、黒い塊。
カンテラの明かりに、塊から漏れ出た液体がぬめるように光る。
近づくと、鉄錆のような匂いがする。
──まさか……。
動物か……人間か。おそるおそる塊にカンテラの光を当てる。
「キミ……フローリオ!?」
頭から血を流し、まるで死体のように倒れ伏していたのは、さっき出会ったばかりのあの双子の片割れ。傍には、ひしゃげたバスケットが中身をまき散らして転がっている。
慌てて抱き上げた、小さな身体は冷えきっていた。
「……ラリアは? なにがあった、フローリオ!? どうして……」
震える声に答える者はなく、眼前にはただ闇が広がるばかり。
「このあたりはいつもこんなに霧がたつのかい?」
「Si、Si、セニョール。この時期は特にね。でもご安心を。もうすぐ着きまさぁね」
三方を湖に囲まれた、ルネッサンスの面影を残す美しい街、マントヴァ。
湖から街を目指したいと願ったのは、彼自身だ。
霧で街の輪郭がぼやけて見える。それはそれで、また一興。
ザリと船底が砂を噛み、小さなボートがひと揺れする。
船頭が無造作に板を船縁から岸に渡す。
「足元、気ぃつけてくだせえよ」
「ああ、大丈夫」
荷物をかつぎ、左右に揺れる板をつたって岸に立つ。
晩秋の風にさらされて、岸に沿って植わっている柳の、今は裸の枝がゆらゆら揺れる。
足元に打ち寄せてくる波は透明で、小石混じりの荒い砂が湖底に続いているのが見える。
──ここがマントヴァか……。
感慨にふけっていると、ザッと船底が砂を掻く音がして、ボートが岸から離れるのに気づいた。
「ありがとう!」
「よい旅を、セニョール!」
上げた手をひと振りすると、霧のなかに戻って行くボートから船頭が手を振り返してくれた。
肩の荷物をかつぎ直して、低い土手を上がれば、湖岸に沿って細い土の道が伸びている。
道を辿った先には街を囲むように設えられた石壁。ところどころに開けられたアーチ型の「門」をくぐれば、そこはもうマントヴァの街中だ。
薄い灰色と薄い茶色が絶妙に溶け合った石造りの家々。その間を縦横に走る石畳の道を、喧噪のするほうへと辿る。
広めの通りに出ると、湖からの水気を含んだ薄灰色の空の下、薄暮の街は、早くも灯された、建物の壁にかけられたカンテラのオレンジ色の光に満ちていた。
連なる商店の主人たちの呼び込みと、夕食の買い物に忙しい婦人たちとでにぎわう広場。
アーケードに吊るされた鶏肉やソーセージが頭上に美しいアーチを描き、歩道にはみ出さんばかりに置かれた台の上には、大きなガラス瓶にクリーム色、緑色、赤色のさまざまな形をしたパスタが入れられている。
──食べ物の色彩をこんなにも美しく演出してみせる街は、イタリアだけだ。
商店の前を通りすぎながら、放浪の画家リチャードは思う。彼が生まれて育った英国では、食べ物はただ売り買いするものであり、美しく見せるものではなかったから……。
太陽を雲の向こうに置いたまま、刻々と藍色に変わっていく空。家々の明かりが灯り、カンテラの火が強さを増し、広場がオレンジ色の光で満たされる。
陽気な声、さんざめく空気、行き交うマントヴァーナたちの長いドレスの衣擦れ。
しばらく街のようすを楽しんだあと、リチャードは広場を通り抜けて、脇道への角を曲がった。さっきから空腹を刺激する香りが漂ってきていたその店は、角を曲がってすぐのところにあった。
「オステリア ピノ」と書かれた看板の下の、立て付けの悪い木の扉の隙間から、香ばしい料理の匂いがあふれだしている。
取っ手を引けば、ギグァとなんとも言えない音をたてて開く扉。その向こうには、年季が入った黒ずんだ床と梁と天井が囲む空間に、洗いざらしのテーブルクロスがかけられた木製のテーブルとイスが並ぶ、いかにも大衆食堂の気さくな光景が現われた。
4人掛け、10卓ほどのテーブルは、赤ら顔をした男たちで埋まっている。空気に生魚の匂いが混じっているところから察するに、仕事帰りの湖の漁師たちだろうか。
「お客さん、はじめてだね。旅行者かい?」
空いている席を探して、視線を巡らせていると、傍で声がした。見ると、リチャードの肩ほどの背丈で、横幅は倍ほどある女性が立っている。
「ええ。いい匂いにつられて」
「ひとりかい?」
「そうです」
「んじゃ、ここにどうぞ」
床に荷物を降ろし、勧められたカウンター席に座ると、女性は壁にもたせかけていた黒板をもってきた。
「今日、できるのはこれくらい。お薦めは、かぼちゃとアマレットとパルメザンチーズのトルテッリ・ディ・ズッカ、カワカマスのソテー、野菜とソーセージのワイン炒め、豆とサルシッチャのパスタ……。ワインが進むよ!」
「あ、じゃあ、そのお薦めを適度にお願いします」
「はいよっ! あんた! 注文入ったよ!!」
セリフの後半は、カウンターの奥に続く厨房に向かってかけられた。そこから野太い声が返ってきたところをみると、夫婦で切り盛りしている店ということか。
「まずはワインね」
注がれたのは、ランブルスコ・マントヴァーノ。
「マントヴァに来たなら、まずはこれを味わってもらわなくちゃ」
発泡性のワインを口に含めば、少し甘い。
「はいよっ! まずは野菜とソーセージのワイン炒め。これは店からのサービスね!」
「えっ!?」
「はじめての客に出す、最初のひと皿はサービス! うちのジンクスでね。一度、うちに来た客は、必ず戻ってくるのさ」
バチンと音がしそうな勢いでウインクされる。皿には大振りのソーセージとトマト、ブドウの実、なにかの香草がほかほかと湯気をたてている。
「じゃあ、おかみさん、ワインをどうぞ。僕と乾杯してください」
「承知!」
おかみはほがらかに言うと、カウンターの奥から出してきたグラスを差し出す。それにワインを注いで渡すと、お互いのグラスを触れ合わせた。
「マントヴァへようこそ! あんたのよき旅に!!」
「ヴィーヴァ、マントヴァ!」
ワインを呷り、グラスをテーブルの上に置くのを待っていたかのように、新しい皿が目の前に突き出された。
「だんなさん、トルテッリ・ディ・ズッカ!」
見れば、濃い茶色の巻き毛に黒い瞳の5歳くらいの男の子が、盆から片手で浮かせた皿を、テーブルのどこへ置こうかと迷っている。
「ああ、すまない。ここに置いてくれ」
ソーセージの皿をずらすと、ほっとしたようにトルテッリの皿を置き、ペコリと頭を下げて厨房に戻って行く。
ふと目をやれば、やはり同じくらいの歳の、濃い茶色の巻き毛の女の子が、ほかのテーブルに料理を運んでいる。皿をテーブルに置くその子に、酔客のひとりがなにか言う。困ったような顔をする少女に、別の皿をもって厨房から出てきた、さっきの子どもが勢いよく寄って行き、彼女を客から引き離した。
「あの子たちは、おかみさんのお子さんですか?」
ワイングラスを片手に立ったまま、酔客と子どもたちの一連のやり取りを見ていたらしいおかみは、リチャードのほうに向き直って言った。
「いいや。あの子たちの母親が病気がちでね。もの乞いに来たんで、ちょうどいいと思って働いてもらってんのさ。男女の双子で、フローリオとラリアってんだ。フローリオは気が利くし、ラリアはなんともかわいらしくてね。今じゃ、すっかり人気者だよ」
おかみの視線が動くのにつられて見やれば、客が帰ったあとのテーブルについて、子どもたちが皿を片づけたり、テーブルクロスを振って、パン屑を払ったりしている。
「6つになるやならずだってのに、フローリオは、さっきみたいに妹が酔っぱらいにからまれたりしたら庇うし、自分は食べなくても、母親と妹には食べさせるんだ。ラリアも兄のことを信頼していて、兄の言うことならなんでも聞く。子どもだけどね、お互いを大切にすることを知っている。あの双子の絆は強いよ」
そう言うと、おかみはカウンターのなかに入り、バスケットを手にして出てくると、子どもたちに向かって言った。
「今日はもういいよ! 上がりな!」
汚れたグラスや皿を満載にした盆を掲げて戻ってきたふたりは、それらを厨房まで運ぶと、それぞれエプロンをはずしながら、おかみさんのところへ寄っていく。
ふたりからエプロンを受け取ったおかみさんは、男の子にバスケットを渡した。
「いつも、残りもので悪いけど。早く帰って、お母さんと食べな」
「ありがとうございます、おかみさん。明日も来ていいですか」
「ああ。時間に遅れるんじゃないよ! ちゃんと働いてもらうから、夜ふかしはダメだよ!」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみなさい、おかみさん」
はつらつとしたフローリオの挨拶のあとに、ラリアのかぼそい声が続いた。どうやら、彼女は兄ほどには世間慣れしていないらしい。
「おお、明日も俺たちに給仕してくれな!」
「腹出して寝んじゃないぞ!」
「夜道、気をつけな!」
店の客たちの声に答えて手を振りながら、ふたりは帰って行った。
「いい子たちだろ?」
おかみさんが笑みを含んだ声で言う。
「そうですね」
襟足でザクザク切られた、手入れのされていないくしゃくしゃの濃い茶色の巻き毛。洗われてはいるけれども、ボロ布一歩手前くらいの服。そこからひょろりと出た、細い手足。弱々しい華奢な身体は、まだ親の庇護が必要な幼児のものだ。
しかし……。
──すごい目だ。
ふたりの黒い目は、まるで石炭を割った、その断面のように光っていた。深い深い黒だった。
──あの子たちなら、描けるかもしれない。
肖像画を描かなくなって、もう十年以上経つ。「風景しか描かない画家」、リチャードはそう呼ばれていた。
でも……。
──あの子たちなら……描ける気がする。
* * *
大いに飲み、食べた。うまい料理と、料理によく合ったワインは最高だ。旅に疲れた身体には、なおさらしみとおる。
おかみさんと厨房からたまに顔を出すだんなさんから、マントヴァのおすすめスポットなど、いろいろな話を聞いていたら、すっかり夜が更けてしまった。
おかみから知り合いの宿を紹介してもらい、リチャードはいい気分で店を出た。
秋の夜長の午後10時。明かりの落ちた街には、人ひとりの影すらもない。
肩の荷物を揺すり上げ、携帯用のカンテラをかざして、描いてもらった地図を見る。顔を上げると、広場とは反対方向に歩き出した。
石畳にひとり分の靴音が反響する。
4、5分も歩いたときだろうか。
道の脇になにかが落ちていた。側溝に落ちかけた、黒い塊。
カンテラの明かりに、塊から漏れ出た液体がぬめるように光る。
近づくと、鉄錆のような匂いがする。
──まさか……。
動物か……人間か。おそるおそる塊にカンテラの光を当てる。
「キミ……フローリオ!?」
頭から血を流し、まるで死体のように倒れ伏していたのは、さっき出会ったばかりのあの双子の片割れ。傍には、ひしゃげたバスケットが中身をまき散らして転がっている。
慌てて抱き上げた、小さな身体は冷えきっていた。
「……ラリアは? なにがあった、フローリオ!? どうして……」
震える声に答える者はなく、眼前にはただ闇が広がるばかり。