人生で「最初で最後」かもしれない瞬間に

私たちは何ができるでしょうか。

私たちは気づかないうちに、 「人生で最初で最後」の局面に接して生きています。

 

例えば、小学校の頃の給食。 6年間、毎日当たり前に食べていたはずなのに、 気づいた時には終わっているものです。

 

最後なんて意識していないから、 「最後の献立」が何だったのか、 誰と同じ班で、どんな話をしながら食べたのか。 今となっては何一つ、覚えてはいません。

 

だからこそ、私はサービス業に従事する方々には 「これが一生で最後かもしれない」 という思いを持って、接客をしてほしいと願っています。

 

1日に100人を乗せる観光カヌーがあるなら、 その100人全員に全力で向き合ってほしい。 たった一組のお客様に対しても、絶対に手を抜かないでほしいのです。

 

「送り手にとっては100分の1でも、受け手にとっては1分の1」 という揺るぎない事実。

 

人生の「最後」は、今この瞬間にも訪れています。

 

最後にディズニーランドへ行ったのは、いつですか? 

最後に母親に「ありがとう」を伝えたのは、いつですか? 

最後に中学時代の親友と会ったのは、いつでしょうか?

 

そう、私たちは気づかぬうちに、 多くの「人生の最後」を通り過ぎているのです。

 

もし人生を80年とするなら、40歳を過ぎた時点で、 日常のあらゆる場面が「人生最後」のカウントダウンに入っているのかもしれません。

 

旅行だって、毎回同じ場所へ行けるわけではない。 大切な人にだって、毎回「好き」だと伝えられる保証はない。

 

だから、一瞬一瞬を、その時を、大事にする。

 

そして、サービス業に携わる方々は、 そんなお客様一人ひとりの背景に思いを馳せて、接客に向き合ってほしいのです。

 

「これで最後にしたくない。またここに来たい」

 

お客様の心に、そう深く刻まれるほどに。

 

私は、”つまらない生き方”や、最終的に″人生を後悔″する人の特徴は「世間体や見栄ばかりを気にして、″自分の本質″を見失うこと」だと考えています。

 

周囲の評価に縛られて生きても、最終的にその人たちはあなたの人生に責任を一切取ってくれません。


安心してください。
そもそも、ほとんどの人は”あなたの人生に微塵も興味”なんてありません。

 

あなた自身も”他人の人生”に微塵も興味がないのと同じです。

 

だからこそ、もっと自分本位でいいと私は考えるのです。
やりたいことをやり、行きたい場所に行き、挑戦したいことに挑戦する。
人生は一度きり。世間体のために犠牲にするには、あまりにも短すぎます。

 

誰かのために生きることは否定しません。

むしろ素敵です。

 

自分だけのために生きろと言っているわけではありません。

自分の本質を見失わないで生きることに意味がある。

 

気づいた頃に、取り返しのつかないことになる前に。

今日は私が本を読む中で出会った一文をご紹介させてください。

 

皆が大根を作るから、自分も大根を作るという生き方、考え方なのである。

引用:人生こんなはずじゃなかったの嘆き

 

 

これは、自身で考える力を奪われた人間の皮肉が込められた言葉です。

 

誰もがその畑がなにを作るのに適しているのか。

誰もその畑がどのようにしてできたのか。

 

そこには興味を持とうとはしないのです。

 

この畑とはあなた自身です。

 

私自身、高校に行きました。

ただ、行きたかったのかと聞かれたら当時は行くのが当たり前という考え方でした。

 

なぜか。

周りの皆が行くからです。

 

これはすごく情けないことです。

行くことが情けないことではなく、自分自身で選択したわけではないという点です。

 

世の中には小学校しか行っていない人で成功した人もいれば、大学まで行って散々な人生を歩んでしまっている人もいます。

 

それはなぜか。

 

あなたという畑にはあなたにしか育てられない物があるはずなのに、人は人に流されることを正解だと思ってしまうのです。

 

そして、最後に言います。

人生はこんなはずじゃなかったって。

 

これは大きな決断です。

周りと違う決断をするという行為は必ず否定が付いてきます。

でもそれは言ってみれば肥料のようなもので、あなたの1番輝くものを作るための材料だと考えればなんてことないと思います。