スケープゴート
9月9日(金)
何か事件が起こるたび、世の中は、スケープゴートを作って、その問題を終わらせる。
スケープゴート・・・古代ユダヤで、年に一度人々の罪を負って荒野に放たれたヤギ。贖罪(しょくざい)のヤギ。2 責任を転嫁するための身代わり。不満や憎悪を他にそらすための身代わり。
これは、天外伺朗先生によると、「大脳新皮質」だけでものを考えてきた人が、事件を見つめているからだという。物事の表面だけを見て、根幹にひそむものが見えないのが、このジャンルの人たちの特徴のようである。明治以降の、国策として日本はずっとこういった人々を優秀として、国家リーダーとしてきた。
今、この方々が、政治、教育、マスメディア、電力、官僚のトップにいるのだから、表面的な「とかげのシッポ切り」で、問題解決が続くのは仕方のないことである。
ANAが副操縦士のミスで急降下すると、国土交通省が出てきて、処分をする。生徒の自殺があると、いじめた生徒をスケープゴートにして、「いじめは良くない」と再発防止を教育委員会が命令する。
「ではどうすれば良いのか?」と聞けば、それは「現場で考えろ」となる。
この官僚的、無責任管理体制にいよいよ限界が来ているのは、震災以降国民の知るところである。
光星学院が甲子園で準優勝した。東北に夢を与えた偉業である。しかし、一部選手の飲酒発覚により、批判の矢面に立っている。例によって、お上である高校野球連盟が、適切な処分を検討している。
学校側は高野連というお上の判断に身を委ねるしかない。時代遅れの封建社会がここにある。
いったい問題は光星の野球部員にあるのか?私は、そうは思わない。
今年に入っての、日ハムの中田翔選手の活躍、言動の成長を見て、あらためてそう感じている。
中田選手は高校時代はかなりのヤンチャであったと聞く。
彼は、そのヤンチャさを直さなくても、プロにいける図抜けた技術をもっていたのだから、思うようにやっていたのだろう。そんな彼も、プロに入って、壁にぶつかった。
そこで自分の至らなさを知り、もともとあった謙虚、素直な心が芽生えてきた。 顔つき、言葉遣いが3年前と全く違う人物となっている。おそらく、ダルビッシュ選手も、中田選手と同様、プロに入り、人格が磨かれた選手と思う。
私は、中学生からプロに入れるような超高校級の素材であった2人のような選手が、高校野球を経なければ、プロに入れないことが不思議でならない。なぜ、サッカーやゴルフのように飛び級でプロの世界に入れないのだろうか。中田選手が、3年早くプロに入れば、ヤンチャを3年前に卒業できたかもしれない。
このおかしなシステムで利益を得続けているのが、高校野球連盟だと思う。
ありもしない高校生の幻影を、プロに行くために3年間我慢している生徒にまで押し付けるシステムがもう限界に来ていることに高野連は気づいていない。
プロに入って伸びる選手にはその道を作ってあげることが、高野連のとる道ではないだろうか。
大人の利益のために、定められたルールが、若者の成長を妨げ、進路の自由を奪っていることが、一番の問題である。
志の波動
9月7日(水)
昨日、札幌にて居酒屋てっぺんで有名な大嶋啓介氏と弊社代表遠藤友彦氏と私の3名で講演会をさせていただいた。お二人のお話を聞きながら、5年前の自分を思い出していた。
私がお二人にお会いしたのは、5年前の2006年であった。
ちょうど教師をやめ、ウガンダに行く直前であった。
遠藤氏は当時、起業したばかりにもかかわらず、駒大苫小牧の夏2連覇をサポートしていた。
甲子園から札幌に戻ってきて話したことは、「3連覇に向けて何をするか」であった。
2連覇の偉業に酔いしれることなく、次の高みに向かう姿に、驚いた。
こんなことは自分にはできないと思った。
大嶋氏とお会いしたのは、2006年3月であった。当時「居酒屋から日本を元気にする」という思いで、「居酒屋甲子園」を立ち上げ、第一回を成功させたばかりの時であった。
大嶋氏いわく、「毎晩泣きながら夢を語っていた」 頃だという。
お会いして、圧倒的なオーラを感じた。何か自分にはない「圧倒的な熱さ」を感じた。
こんな若者が日本にいるのか?こんなことは自分にはできないと思った。
ウガンダに行く直前、私は二人の同世代の男に「しびれた」。
今思えば、心の奥底で、「自分もあんな人たちみたいに生きてみたい」と思い、ウガンダに旅立ったように思える。あれから5年が経ち、今その大嶋氏と遠藤氏と講演会に参加させていただいている。
不思議な感覚がある。あの時と今の自分が何が違うのか?それは「志」である。
5年前の自分には、自分の夢をかなえたいという思いはあった。その実現のために熱く生きることはできた。
しかし、二人のように「日本一になり、日本を変える」といった「高き志」は全くなかった。
夢が志に変わったのが、この5年間であったということを昨日気づかせていただいた。
人は「志」の波動で引き合うのだ。
過去何をしてきたか、今何をしているかということよりも、「どんな志を抱いているか」ということで、超一流の方との出会いや言葉をいただけるのだ。
5年前、お二人のようなことは自分にはできないと思った。その気持ちは今も変わらない。
しかし、あのときと変わったのは、お二人のようなことはできないが、「自分にしかできないことがある」
ということだ。
素晴らしいご縁に感謝するとともに、「志」の大切さを再確認させていただいた。
いじめ自殺の真因
自分の宇宙
9月3日(土)
ソニーの四天王といわれ、戦後の復興を支えた天外伺朗氏は、こう仰っている。
太陽があって、月があって、地球があって、日本がある。その日本の上に自分がいる。
そう一般の人は考えている。しかし、私は、人間ひとりひとりが「小さな宇宙」であると感じている。
だから、ご縁のある人同士は、相手の宇宙と自分の宇宙は、どこかで接していると考えたほうがよいのだという。
自分の言ったこと、思ったこと、考えたことが、すべて「自分の宇宙」に現象面として現れる。
天外先生は、「自分の宇宙を整えると接している他人の宇宙も自然と整うのだ」と説かれている。
他人の宇宙に影響を与えられる人は、例外なく、自分の宇宙を整えている人なのだ。
「時を守り、場を清め、礼を正す」
森信三哲学は、自分の宇宙を整える大切さを教えてくれる。
私達のまずすべきことは、「自分の宇宙」を整えることにあるのだ。
そう考えると、他人の言動に、善悪はない。大切なのは、他人の言動を自分がどうとらえるかの一点にある。
どんな誹謗中傷であっても、もし、そこに意味、真理を見ようとする「自然な心構え」があるならば、その誹謗中傷は自分にとって「善」になる。
「幸せは自分の心が決める」という言葉があるが、まさしく、自分の宇宙を決めるのは自分の思考であり、自分の素直なとらえかたにある。
自分の宇宙を美しく整えるために、人は学び、働き、生きるのだ。
安岡正篤先生は仰られる。
「人間にとって独を抱くということは、非常に大切なことだ。独とは単なるひとりではなく、相対に対する絶対の境涯を示す。つまり、群集に伍する、大衆に混じることなく、自己に徹するということだ。人は自己の絶対に徹してはじめてあらゆる相対に応じることができる。」「照心語録」
単なる頭でっかちでは、人を動かすことはできない。
安岡先生のいう「胆識」のある人間とは、自分の宇宙を見事に美しく整えあげた人物のことをいうのだろう。
内観
8月20日(土)
夏休みを利用して、栃木県喜連川にある瞑想の森に「内観研修」に行った。
内観は、ほぼ50年ほど前に、吉本伊信氏が「身調べ」と呼ばれていた自己洞察法をもとに創始した、純日本的かつ効率の高い自己改善法である。
この修養法は、シンプルである。周囲をついたてで囲んだ半畳の空間。そこに座り、三つの命題について考える。
最初は母親についての自分である。母親から何をしてもらったか?母親にどんな迷惑をかけたか?母親に何をして返したか?の3点について幼児の頃からの出来事について記憶をたどり、思い出していくのだ。
つまり自分史を振り返っていくということだ。
母親の次には、父親。父親の次には、親族、そして関係の深い人についての自分を振り返っていく。
情報を遮断した中で、1週間100時間以上こういったことを繰り返していく。
集中して自分の過去を回顧していくうちに、「自分がいろいろな人に支えられて生きていること」が実感されてくる。
そして、あれほど多くのことを自分にしてくれた父母、周囲の人々に関して、自分が当たり前と思い、何もお返しをしていないことに気づかされる。
やがて、そんな恩知らずの自分に対しても、今もなお心配をしてくれる親の愛、周囲の思いを感じることで、改めて、「ありがたい」という気持ちが、心から湧き上がってくる。
このような深い恩の感じ方は初めてであり、なんともいえない幸福感に浸った時間であった。
多くの恩に支えられて今の自分がある。では、自分がどうその恩を返していくのか?
人生の目的はその一点に集約されるのではないだろうか?そう感じさせていただいた1週間であった。
今日、公共放送であるNHKが番組の中で、次のような問いを視聴者に発していた。
「国のためにあなたは死ぬことができますか?」
その問いに対して、視聴者はこう答えていた。
「命を懸ける価値がない国だから・・・できません」
「国のために命を捨てなさいという国なんて滅びてしまえばよい・・・」
当たり前である。戦争がなぜ起こったのか。当時の国際情勢はどうだったのか?
こういったことを教えられずに、ただ唐突に「国のために死ねますか?」と言われて「ハイ」といえる人などいない。
今こそ、日本国民にも「内観」が必要である。誰のおかげで今の日本、日本人、そして自分があるのか?
先人は今の私たちに何を残してくれたのか?どんな思いで生きられたか?
過去の全てに感謝できたとき、人は過去に囚われず、今に集中でき、未来を切り開くことができるのだ。
魂を育むものの姿勢
8月19日(金)
森信三先生の一番弟子であった東井義雄先生の言葉には「魂を育むものの姿勢」が表れている。
東井先生は、自分に厳しく内省しておられる。
「私は教師面して、本物でない自分に対して言わなければならないことを他人に対して言い続けてきました」
こういう自覚をもって子供に接していたからこそ、魂に深く影響を与えられたのだろう。
森信三先生は、道徳教育に携わるべき教師の覚悟についてこう述べられている。
「道徳教育については、自分にはその資格なしと知ることが基本です。しかし、現実には、立場上、教師としてせざるを得ないという考えをもって、全力的に取り組むほかないところに、ほのかな微光が差し染めるのです。」
東井先生は、あるとき、教職者から「子供たちにどうやって読書の習慣をつけさせたらいいですか」
と質問されて、こう答えている。
「教育の問題は第一義的には、自分の求道の問題です。子供たちにどう教えるかという教育技術の問題ではないように思います。子供たちが自分の求道姿勢に共鳴してくれることが先です。読書についても同じで、自分が日々読書に親しんでいて、あの本は良い本だった。大いに教えられたなどと話していたら、子供は読んでみようかなと動機づけられるものです。動機付けること、つまり火をつけることが教育だと思います。」
教育の問題は第一義的には、自分の求道の問題なのだ。
問題は、子供たちにどう教えるかという教育技術の問題ではなく、自分の向上心、求道心の問題なのだ。
問題は外にあるのではなく、内にある。内にある熱いものが、子供の心に共鳴していくのだ。
そんな東井先生だからこそ、素晴らしい詩を残されている。まさしくこれが、魂を育むものの姿勢である。
「太陽は夜が明けてから昇るのではない。太陽が昇るから、日が明けるのだ。」

