世の中で風邪が流行り始めてから音楽の仕事を失ったたことがきっかけで、お金とは何かについて考えるようになった。  

お金を払われず聞かれない音楽はただの騒音なのか?
誰にもみられず価値もつけられない、ちらしの裏にかかれた素晴らしい絵もあるはずなのに、なぜこの世界はお金が全てになっているのだろうか。


若い頃は マイホームを持ち乗用車に乗り、年に一回は旅行へ行き、ブランドバッグを持ち、シーズンごとに洋服を買い替えれば幸せになれるという幻想を抱いていた。お金がないと不安、お金持ちになれれば幸せになれると思っていた。

しかしある時支援金を受け取り、小さくはない額だったので通帳の残高がかなり増えたものの、不安はきえなかった。お金を持っていれば不安は無くなるという期待は脆い幻想だったと気づいた。
一億円あっても100億円あっても不安と欲は尽きないと心から知った。

いよいよお金とは何かを考えだし、現代の資本主義社会はおかしいのではないかと本格的に思う様になった。売れるための曲、売れるためのドラマ、売れるためのアート、何もかも商業がベースになり、(紙幣を介して)売れないものは価値がないとされる。

そんな社会で売れるための音楽を作り巨万の富を得たとしてもそれは資本主義社会という枠組みの中での狭義での成功であって果たしてそれは(自分自身にとって)本当に幸せだと言えるのだろうか。

疑問を持ち、貨幣の成り立ちや経済について片っぱしから本を読みYouTubeを漁り、歴史なども勉強した。
どうやら私たちが崇める福澤諭吉さまには、本質的な価値はない様だ。と、うっすら気がついた。

あくまでも紙幣、硬貨というものは、なんでも交換券のようなものであり、それ自体に価値があると思っていた今までの考えは単なる思い込みであったようだとある時から考える様になった。

そして、お金至上主義のその幻想が私たちから本質的な生きる力を奪っている事にも気づいた。

現代ではお金があれば大抵のものは手に入れることができる。しかしそれが私たちの生きる力を奪っているのだ。それは畑を初めて気がついたことでもある。
私たちはお金を出せばすぐにスーパーで野菜や肉を手に入れることができるので、野菜の作り方や、生きている豚を捌く術を知らない。

お金がないと生きていけなくなると、世の中の多くの人が不安に思っているだろう。
しかしそれは単なる思い込みに過ぎない。

お金がなく、食べるものがないならば、家族や友達、または近所の人のところへ行って、「お金がないので食べ物を分けて欲しい」と言えば済む話である。
家族や友達なら、信頼関係のあるあなたに食べ物をよろこんで分けてくれると思うし、近所の人も、何かしらの条件付きで(例えばその人の代わりに電気交換をするとか、トイレ掃除をするとか、なんでもよい。)食べ物を分けてくれるだろう。

それ以前に生活保護もあるため、くだらないプライドさえ捨てて仕舞えば、お金がなくても生きていける。

知識をつければ食べられる野草を見分けることもできるし、自作の道具で釣りもできるだろう。

こういった、人との信頼関係を築いたり、困ったときに助けてくれと言えるコミニュケーション能力、野や海から食べ物を得る知識が本質的な生きる力だと考える。

しかし現代に生きる私たちは、お金でなんでも買える生活しか知らない(そのように仕向けられた)ため、お金がなくなった途端本質的な意味での生きる力を失うのだ。だから金の切れ目が縁の切れ目などという言葉があるんだろう。
全て金が頼りの人生がある意味1番危ないのではないだろうか。

お金はただの紙切れであり、それ自体は食べることもできない。あくまでもみんなが、「これは一万円だ
と思っているだけの紙なのである。     

日本中のみんなが福澤諭吉が印刷された紙を見て
「これは一万円札だ」
と思っているだけなのだ。
その紙自体にはそんなに価値はない。
お金で買えるにんじんは食べれるが、そのお金は食べれないのである。
お金で買える家は、私たちを雨風から守ってくれるが、お金では雨風を凌ぐことはできない。

イギリスでの産業革命を機に資本主義は私たちの生活にじわじわと入り込んできた。そして、様々のものが資本家のものとなり、私たち民衆のものではなくなった。本来は音楽も絵も農業も湧水もその辺の海もみんなのものだったし生活の中にあったはずだった。
しかし資本は音楽や絵や農業や湧水、山、様々のものを囲い込み希少化し価値の増殖を続けている。
その結果、人々は幸せになっただろうか?豊かにはなったし便利にはなった。しかし、日本という国がこれほど元気がないのはどうしてなのだろうか。

わたしは先日、ある講座を受けた際に自分の財布から取り出した一万円札を真っ二つに破いてみた。
一万円札自体は価値がないと分かっていても少々勇気がいることではあるが、講師の方から一万円札を製造するのに必要なコストは20数円ですと言われ、思い切って破ってみた。
それなりに分厚い紙で、手応えはしっかりあり、敗れた時の音は、ビリビリビリ!とかなり大きかった。
破れて真っ二つになった一万円札を眺めると、言いようのない爽快感と笑い、そしてなによりも呪縛から解き放たれた開放感がブワッとが込み上げてきた。

一万円札を追い求めて生きていくことのなんと馬鹿らしいことか。一万円札が財布から出ていくのを気にして、自分のやりたいことをしない、本当に欲しいものをかわないことのなんとバカらしいことか、こころから理解し得た瞬間だった。

全ての根幹は自分自身がどう生きたいかであり、一万円札がいくら入ってくるか、または出ていくかではない。

このことは多くの人が言葉ではわかっているがなかなか実践できないところだと思うしわたしもまだまだ実践できていない部分も多い。

しかし一万円札を破るという、この稀有な体験は、私の中に散らばった無数のピースを一気に集め、一つの形にしてくれたのは間違いない。

このブログを読んでいる奇特なあなたが興味があるならば、一度くらいは一万円札を破いてみるとよいとおもう。心から、この紙切れに人生の選択を左右させてはいけないと思えるはずだから。