シティーハンターの日々
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コロンビアの女

イザベル(19)はコロンビア出身、肌の色が透き通るように白く髪はブロンドで一見してフランス人のようにも見え、笑顔はいたってチャーミング、体系は中学生の少女のようで、いつもベネズエラ出身の兄弟生徒たちと一緒に語学学校に登下校していた。 俺は彼女たちと毎朝バスが一緒で、帰りはめったに一緒にならなかったけど、わりと話す機会も多く、明るくてとても好印象を人に与える子だな、くらいにしか思ってなかった。

ある日、俺は帰りのバスでイザベルと一緒になった。彼女は目の下にひどい隈をつくり、顔は非常に青白く、どこから見ても病人そのもので、何か思いつめたような顔をしていた。俺が近くに座って大丈夫かと確認すると彼女はすすり泣き始め、『胸が苦しいの、体調がずっと悪いし、でも英語の勉強はちゃんとしたいから学校は休みたくないの』と言う。医者には行ったのかと聞くと、『医者は恐くていけない。誰も連れて行ってくれないし、それに、恐くて行くことなんて考えられない。私が悪いの、私がもっと我慢すればいいことなの』と語りながら、大粒の涙をボロボロ流し始めた。

当然俺は何を言っていいかもわからず、英語という問題もあり、ただただ聞いてあげるしかなかった。バスを降りるとき、『明日学校には来れるよね?』と確認すると、彼女は笑顔で『うん、大丈夫よ』と言った。次の日、彼女は朝のバスにて、前日よりは顔色もよく、笑顔も見え、俺は一安心した。依然として栄養失調気味の様相を呈してはいたものの、前日よりは良くなっているように見え、胸の痛みは治まったと言っていた。

彼女はホームステイしていて、その家には彼女を除いて3人のハウスメイトがいた。2人は韓国人、ひとりは日本人。全員同じ語学学校の生徒で、全員女だった。4人はいつも朝は同じバスに乗って登校していた。2人の韓国人の間には何か問題があり、彼女たちは一緒のバスに乗っても、バスを降りてから学校に歩いていく間も、当然のように一言も話さないし、学校でも、さらには部屋内でも(彼女たちはルームメイト)まったく会話はないらしかった。詳しくはわからないが、片方の女は非常に個性が強烈で極端なところがあり、なんとなくその光景が想像できるような気はした。

そういうステイ環境ではあったものの、イザベルは基本的に(栄養失調そうに見えること以外は)問題はないように見え、彼女がベジタリアンだということを知ったときは、それが血色の悪い原因なんだなと納得することもできた。チキンだけは食べるらしいが(厳格なベジタリアンではない)、あとはほとんど野菜だけを食べてるという。

ある日、イザベルを交えて4人でベトナム料理屋に行く機会があった。ハウスメイトの日本人のおごりだということで、俺を含め他の3人は何の遠慮もなく大いに注文し、大いに食事を楽しんだ。料理はとても良く、食事中の雰囲気も良かった。イザベルの食べる量はすさまじく、他の人の倍は食べているように見え、小さい身体のどこに入っていくのかと俺たちは驚くばかりだった。

彼女はいろいろと自分のことをみんなに話してくれた。

母国コロンビアがどれほど素晴らしい国か。スペイン語圏の人間たちの人生を楽しむ姿勢、フレンドリーさ、ユーモアのセンス、すべてに誇りを感じているようだった。みんなぜひコロンビアにも来てくれ、本当にみんな人生を楽しんでいる、わたしはそのスタイルが大好きだ、人間はフレンドリーであるべきだし、そうじゃない人間は好きじゃない、その点スペイン語圏の人間は非常にポジティブに人生を生きてるからフレンドリーなんだ、というようなことをとても嬉しそうに話してくれた。彼女の父親はホテルのオーナーらしく、コロンビアでは珍しい4つ星だという。非常にきれいで大きいホテルで、ぜひコロンビアに遊びに来て欲しい、と言い、写真つきのホテルの名詞をうれしそうにみんなに見せた。彼女はとても幸せそうで、俺たちは安くて美味しいベトナム料理を食べながら遠いコロンビアという国に思いを馳せた。

俺が彼女と食事を共にしたのはそれが最初で最後だった。それ以後まともに話をする機会はないまま、俺は語学学校を卒業した。

そして後日、こんな話を聞いた。

彼女はよく不審な行動をしていたという。ホームステイ先でしばしば物がなくなることがあって、イザベルがそれを持っているところをハウスメイトが目撃するということが何度かあったという。冷蔵庫のものを勝手に持ち出して学校で配ることもしばしばあり、人のものを勝手に食べるというのは日常茶飯事だったらしい。その家では洗濯をするのにもトイレットペーパーにもそれぞれお金を払うシステムになっていたらしいが、イザベルは一度も払ったことがないという。

ホストファミリーが買ってきたマンゴーがなくなったことがあった。数日後、『これは私からのプレゼントです。イザベルより』というメッセージとともに元の場所にマンゴーが戻されていた。例を挙げればきりがないらしいが、とにかく、不審な行動が多かったらしい。

ハウスメイトだった日本人がその家を出るとき、ホストマザーにそのことをちょっとした警告として言ってみたらしい。するとホストマザーは驚いた様子もなく、『わかってる』と言った。『すべてわかってるのよ、あの子は最初からトラブルばかり起こしてるの』というようなことを言って、その日本人はそれがどういうことなのかわからず戸惑っていると、ホストマザーは彼女の手を取り、イザベルの部屋に連れて行った。ちょうどイザベルは外出中で部屋には誰もいなくて、ホストマザーは見てみろとばかりに彼女の机の引き出しを開けると、そこにはおびただしい量のトイレットペーパーが入っていた。

『ね、彼女はこういう子なのよ。もしかしてあなた、彼女の話すべて信じてはいないわよね?』とホストマザーが言う。びっくりした彼女はどういう意味かと尋ねる。『そう、あなた信じてたの・・・。彼女は嘘つきなのよ。ひどく貧乏でひどく嘘つきなかわいそうな子なの』。話のあまりの急展開にその日本人は最初何がなんだかわからなかった。『あのね、彼女の父親はホテルなんて持ってないの、単なるタクシードライバーなの。彼女はお嬢様でもなんでもなく、語学学校のお金はマイアミで清掃婦のバイトをして貯めたものなの。わかる?すべて嘘なのよ、このトイレットペーパーはきっと学校から持ってきたものだし、冷蔵庫のものをいつも勝手に持ち出すの』

話はさらに続いた。

『彼女は最初に来たとき、わたしたちには本当のことを言ったわ。ひどく貧乏なこと、マイアミでメイドをやっていたこと。でも、あなたや学校の生徒たちには、すべて嘘をついているのよ。知ってる?さっき学校から電話があったの。彼女があまりに顔色が悪いのを先生が心配して彼女にちゃんとご飯を食べてるのかと尋ねたら、彼女何と答えたと思う?家ではご飯を食べさせてくれない、と言ったらしいのよ。信じられる?あの子は平気でそんなことを言う子なの。ああ、あなた今まで知らなかったとはね』

話はさらに悲しい展開へと進む。

『あなたホテルの名詞見た?ああ、見たのね・・・、思い出してごらんなさい、あんな小さくて汚らしいホテルが4つ星なわけないじゃない!そもそもコロンビアに4つ星ホテルなんてあるわけないわよ。どこから持ってきたものか知らないけど、全部嘘よ、全部嘘。それに、あの子自分がベジタリアンだと言ってなかった?ああ、やっぱり言ってたのね。 でもね、主人はあの子が隠れてビーフを食べてるのを目撃したことがあるのよ。全部嘘なの、あの子は何だって食べるわよ。あの子が来てから冷蔵庫やキッチンからいろんなものが消えてるわ。きっとどこかに溜め込んでいるのだと思うわよ。別に調べたりしようとは思わないけど。これでわかったでしょ?あの子はここではお嬢様として振舞えたのよ。誰もあの子の過去を知らないわ。あなたたちはもちろん信じてたわけで、あの子はさぞかし気持ちよかったでしょうよ。コロンビアに行ってもあなたは絶対に彼女に会うことはないわ。あの子の過去を知る人がいない場所はあの子にとって快適なの。そう、あの子は憐れで不幸な子なのよ・・・』

あまりに衝撃的な事実をホストマザーから知らされたその日本人は次の日に語学学校を卒業し、ステイ先(その家)を出て、フロリダ滞在最後の一週間をダウンタウンのホテルで優雅に過ごした。俺はその人からこの事実を聞き、到底言葉にできないほどのショックを受けた。

すぐに思い出したのは、バスの中で『胸が苦しいの』と泣いていた彼女の泣き顔と、ベトナム料理屋での異常なまでの食欲だった。あの食欲には正当な理由があったということだ。単に腹が減っていたのだ。元々小食なわけでは決してなかったのだ。ベジタリアンだとだいう嘘が彼女から食べ物の選択肢を奪ってしまっていただけで(他人が見てる前で)、彼女はいつも空腹だったのだ。ベジタリアンだという嘘にどういうメリットがあったのかもわからないが、きっと、彼女なりの理由があったのだと思う。

彼女は『胸が苦しい』と言った。当然だが、その苦しさを簡単に理解することはできない。ただ、嘘と盗みがこれまでの彼女の人生を支えてきたのだということはある程度想像できた。彼女はここでは貧乏で恵まれない環境に生まれた自分を忘れることができた。誰もが貧乏で不幸な彼女を知らない。 4つ星ホテルのオーナーの父親を持つ彼女を羨望のまなざしで見てくれた。

それは、ひとつのアメリカンドリームなのだと思う。実際、それがアメリカンドリームの本質なのかもしれない。誰にでも億万長者になるチャンスがあるということではなく、単に、過去を捨てられるかもしれない、という切実な希望のことなのかもしれない。別の人間として生まれ変わること、それがドリームなのだ。

過去を忘れるためにここにいる。別に人間として再出発するためにここにいる。

簡単に共感することはもちろんできないし、それは彼女に対する侮辱だ。

自分の20cm隣で大粒の涙を流していた人間の言動がすべて嘘に基づいたこと、その涙の重さを自分が1グラムも理解していなかったということを、一体どうやって理解し整理できるだろうか。

ベジタリアンだと言って隠れてビーフを食べるときの彼女の心境を簡単に内在化してみることもできない。何の関係もないホテルの名刺を自分の父親のものだと言ってみんなに見せびらかしているときの嬉しそうな笑顔の水面下の複雑さに、簡単に言葉はかけられない。

何もできないと思う。

唯一できることは、こうして彼女のことを考えることだけだ。時々思い出し、彼女の胸の痛みを繰り返し考えてみることだけだ。

簡単に『共感』し『同情』してさっさと片付けてしまう人間がこの世には溢れているが、それはとても悲しいことだ。他人が抱える困難について考え続けていくことだけが、人間にある種の『感受性』を与えてくれる。感受性を持ち、考え続ける人間は、簡単に共感や同情なんてしない。

考え続けることだけが、人間を絶望から救ってくれる。

彼女は、『嘘も方便』と笑って言えるだろうか。
この話には希望がない。

ただ、考え続けないといけないのだと思う。

・・・まったく、彼女の言うとおりだ。

胸が苦しいよ。