唯とは何かをここで完全に説明できたなら、他にもう何も語ることがなくなるが、もちろんそんなことはあり得ない。それどころか、唯とは何かについていつかは見事に語りつくせるということも想定し得ない。
なぜなら唯とは、私がそういう呼称を与えた思想であり方法であるとはいえ、私の固有名を冠すべき思想だとは思っておらず、私でなくてもいずれ生み出されたであろうし、いやもともとあったようなものでもあり、たまたま私が掬い上げたにすぎず、はたまた将来的には私以外の誰かが語り連ねていく、あるいは語り直していくはずのものだからである。

とはいえ、唯について、さしあたり私が語りを始めなければ何も浮かび上がってこないままになる可能性があり、そうならないためにできる限りのやり方で語っていこうと思う。
思想の内容や具体的な方法の概要をここで一度に語ることはできず、いずれそれぞれの場所において語るべきものであるから、まだそれに踏み込むことはしない。ここではまずほんの触りの部分、思想や方法などと言う以前のものとしての唯について触れておきたい。

唯と聞いて何を思い浮かべるか。
「ただの」という意味で捉えるかもしれないし、「唯一無二」という言葉を思い浮かべるかもしれない。前者の意味では少々ネガティブに捉えられることがあり、後者ではかなりポジティブに受け止められるだろうが、どちらに傾いてもおかしくないとても幅のある言葉と言えるだろう。
ここで語ろうとする唯は、その言葉の指し示すものから離れてあるわけではない。むしろその言葉が指し示すものそれ自体であり、それに焦点を当てることで見出されるものである。

では「ただ/ゆい(唯)」とはどんな使われ方をしているのだろうか。大きく分けて四つのタイプに分かれると考えている。
まずは「ただ単に」「ただそれだけ」という意味での使われ方が最も一般的で最も頻度が高いだろう。英語で言うところの「just」や「only」にあたる使い方である。
この使い方における唯はとくだんネガティブでもポジティブでもないニュートラルなものだと言えるだろう。もちろん「単なる…」という響きには多くの場合ややネガティブな感じが含まれているが、逆に「まさに」「それこそ」という方向性で使われる時にはポジティブな意味合いを持つこともある。
つまり使い方によって意味するところが変わるのだが、「ただそれである」という時の使い方としては、それ以上でもそれ以下でもないという意味でニュートラルと言える。

次の使い方としては、同じく「ただの…」と言う時に、ありふれた、どこにでもある、なんでもない、どっちでもいいようなもの、というニュアンスを含んだものがある。
辞書で調べても「取り立てて言うほどの価値・意味がないこと。」と出てくるので、これもよくある使い方と言えるだろう。
最初の使い方と違うのは明確な方向性を持って使われていることで、特別なところが何もない、取り上げるに値しない、ということを含意した使い方になっている。明らかにネガティブな方向性だが、もう少しシンプルに言うなら、平凡な、凡庸な、普通の、通常の(ordinary, common)という意味である。

三つ目は、使い方としてはそれほど多くないかもしれないが、二つ目とは逆に「ただの…」がポジティブな方に作用する場合である。
それはどういう場合なのかと言うと、意識することなく、意図することなく、無心で「ただそうした」と言うような時である。そこに純粋さ、素朴さ、何気なさ、無邪気さ(unconcerned, innocent)が感じられる時である。
これは日本人の特質なのかもしれないが、我々はそういうものをとくにポジティブに評価する。なのでこの「ただ」の使い方は、少なくとも日本人の間ではポジティブな意味を持つ。

四つ目は、この場合の唯の使い方に限定される。唯一、あるいは唯一無二という言葉を使う時である。
一つ目の使い方でポジティブな意味合いを持つもの(「まさに」「それこそ」)に近いというか、それの最上級のようでもあるが、そこに取り換えがきかない(irreplaceable)という意味が組み入れられている。つまり「それでしかない」という唯一性(soleness, uniqueness)を意味している。
唯一という言葉が唯一性を意味しているなんてただの同語反復で何の説明にもなっていないが、まさにそれを意味しているのだからそう言うほかない。

唯とは何かに戻ろう。
唯(ただ/ゆい)という言葉の使われ方を四つのタイプに分類したが、唯はこのうちの一つや二つを掘り下げたものではなく、あるいはこれら四つ以外の意味で捉えようとする試みでもない。唯の意味がこれら四つにまたがるものである以上、唯とはこれら四つを包含するものでなければならないし、それだけでなく、これら四つが唯という同じ言葉で表現されている以上、唯とはこれら四つに一本の筋を通すものでなければならない。
それを簡潔に表現するものとして、ここではこんなかたちで締めくくっておこう。

ただ生きること。
なんでもない日常をただただ生きていること。
かけがえのなさはそこにある。
ただ私であること。
なんてことのない私をただただ生きていること。
とりかえのきかない私はそこにいる。