小澤征爾さん御逝去のニュースに触れて
私は小学2年生から5年生までバイオリンを習って居た。幼稚園と小学校の近くに住む塚田先生はビオラの先生で東京フィルの女性ビオラ奏者でもあった。
住まいは小学校の目の前で平屋のこじんまりした家で、正門を入ると継ぎ足された部屋が右側にあり、そこについたドアから入る。するとそこには左手にソファ、右手にアップライトのピアノ正面には山となっている楽譜が積み重なっていた。私と私の兄はそこでバイオリンを習っていたが、兄は音感が無いと先生に言われ、音感の特訓を受けているうちに行かなくなってしまった。
私は自然に音感があった様で、バイオリンで音を外すことは無かった。そんなことから先生に気に入られて本来の月謝の数分の一でレッスンを受けることになった。バイオリンのレッスンは辛かった思い出がある。だが厳しいだけではない、レッスン中に厳しい先生も、私が好きそな曲をヴィオラやピアノでよく演奏してくれた。ヨハネス・ブラームスやラフマニノフなど流れるような情緒的な曲に私は胸打たれそれを目をつむりながら心を込めて演奏してくださった。
実はこのころ私は家庭内で暴力を受けるようになり、その影響は日に日に強くなっていた。その影響は表層に現れるようになり、私自身も受けた暴力を学校で発散するようになっていた。クラスでは凶暴な児童としてまともな友人もなく、関西や外国から転入してきて虐められていた子たちと一時的に仲良くなる程度であった。彼らもまた水になれれば私を嫌がった。勉学も揮わず家庭の暴力と学校に溶け込めない状態から相当ストレスが溜まっていたのだ。
音楽というのはその気持ちが最もよく現れる。バイオリンの先生はそれを一番よく理解されていた。弓を張り、ピアノで調弦する。初めの5秒で先生が「今日は辞めようか。」といって私の心に怒りが有ることを感じて、私が落ち着くような楽曲を30分演奏してくれた。私の情緒不安を感ずると先生は私の親に電話し、何が起きているのかを聞いてくれたりもした。母は逆上しそれに心配になった先生は私を家まで送り届けてくださった。そんな先生は私の祖母と仲良くなりお互いによく連絡を取り合っていたようだ。クリスチャン同士、気が合ったのだろう。
そのころ私は家に帰るのを拒むようになり、小学校から直接先生の家に行き隠れるようになっていた。先生が辛かったら遠慮せずにうちに来るように言ってくれていたからだ。日曜日には坂を下った商店街にある教会で一緒に礼拝をしたりもした。当時の牧師さんは若いころ関東連合という暴走族集団のメンバーをしていた方だった。怒りの抑え方、心の痛みを力に変える方法等を聖書に基づいて説教していた。私は当時10歳くらいだったが、彼の説教は自分の中で腑に落ちた。
そんな状況が続いたある夏の日、プールの授業で私は耳に激痛を感じ、担任の先生に助けを求めた。先生は私の体にある痣や腫れた頬などを確認し、何があったのかを私に尋ねた。その時初めて私は学校に私は何が起きているかを話した。担任の先生はすぐに私を病院へ連れて行き、そこで病院の先生も驚くような鼓膜の状態に何が起きているかを察知したようであった。耳の激痛の原因は家族に平手打ちされた結果、両耳の鼓膜が破裂し中耳に水が流れ込んだために起きたことだった。右耳は7割欠落、左が3割欠落していた。耳用の掃除機で水を吸い取った音は今でも忘れられない。
担任の先生は私をそのまま区内の児童相談所へ連れていき、私は父母が迎えに来るのを待った。相談員は相談所にあるビリヤードやダーツなど今まで私が遊んだことがない遊びを一緒にしてくれた。私は楽しんでいたが、この後起こるであろう家族の報復に恐れていたため不安で仕方なかった。家族の迎えを待たずに私は帰宅することにした。バスに乗って30分自宅へ帰宅した。
帰宅すると案の定の報復が待っていたが、その後の記憶はあまりない。ここから先は記憶が断片的になっており記述することができない。聞いた話では児相は保護監督の問題を定義し、私を江の島にある東京都が運営する児童施設への入所を提案。それを聞いた祖母が大森にある祖母宅(父の実家)での一時預かりを提案してくださった。そこで出会ったのが今研究復元を進めている火縄銃や福島の先祖の歴史だった。
私は自分の着替えやランドセル、そしてバイオリンを持ち祖母の家のある大森に出かけた。バイオリンを弾くと祖母は喜んで聞いてくれた思い出がある。祖母は小澤征爾が好きで、NHKのBSをクラシックを聴くためだけに購読していた。小澤征爾の指揮による演奏はまるで綿花の様な柔らかさに洞窟の様な奥深さがある。辛かった3年間の終わりを告げるかのような美しい音色が今でも忘れられない。
