左からマニトバ勲章受賞者クワダ氏、日系協会のお二人、旭日中綬、カナダ勲章、マニトバ勲章受賞の三木名誉博士。
昨晩は日系カナダ人3世で、真珠湾攻撃を期にカナダ政府の政策で動産及び不動産資産の接収、バンクーバー周辺住民の強制収容、強制送還または強制移住させられた日系カナダ国民を代表してカナダ政府に日系カナダ人の名誉の挽回、そして戦時中接収され戦後返還されるはずであった資産の清算の指揮を取ったアーサー三木名誉博士の三木家の伝記の出版記念式典へ招待され参加してきた。
三木氏とは私が移住してすぐに生活の基盤を築くにあたり手助けを頂いており、10年来の友人であるが現在87歳で私にとっては移住先の祖父の様な方だ。普段から色んなイベントに読んでくださり、心から感謝している。安倍晋三氏の頃に旭日勲章の叙勲が決定し、私も受賞伝達式の際は開催を担当した。
今回の式典は日本国大使館、日本国総領事館、国立人権博物館の共催で行われたものだったので、山野内日本国大使、渡部総領事、ネヴィル・マニトバ州副総督(チャールズ国王総代)、国立人権博物館館長の参加があった。
基調講演をする三木氏横で電灯を照らすのは孫のアレックス氏。
昭和16年12月7日、大日本帝国が連合国へ宣戦布告し真珠湾を攻撃すると、北米各国は日系移民に対する規制に乗り出した。
カナダのブリティッシュコロンビア州(英領アメリカという意味)には日系人の移民が1890年代より国策移民で移入しており、西日本の士族や農民を中心にハワイ経由での移民が行われた。多くはハワイでのさとうきび畑での勤務による外貨獲得を目的としていたが、ハワイでの職が見つからない場合はそこからさらに米国サンフランシスコやバンクーバーへ移住していった。多くの家族がハワイ行きのビザのみを持って移民して何故かバンクーバーへ到着している。
この移民の数は1930年代には約二万人に達しており、現地の議会では働きすぎる日本人と白人から土地を購入し地主になっていく日本人に警戒感を示す議題が多く上がっていた。あるブリティッシュコロンビア州の市議会での議事録ではこう発言がなされていた。
「日本人は勤勉でよく仕事をし、我々白人の職という職を奪っている。彼らに規制を与えなければ我々白人の社会は貧困におちいるだろう。」
同じ様な発言は米国議会でも同じ様に議論されて、彼らも日系人の強制収容所送りとなっている。
こう言った背景から中国人を含め人頭規制が入り、医者や政治家、会計士などの専門職への黄色人種就職禁止などの規制が敷かれた。議会での差別的な発言はもちろん住民を代表する声として届けられていたため、1941年の攻撃後の日系人商店や事業への嫌がらせは頂点に達した。
「NO JAPS WANTED(醜い日本人は御免)」と落書きされ、強制退去を指示された自宅で最後の写真を撮る家族。当時は接収された不動産は戦後返還される契約書がありそれにサインをしていた為かあまり不安そうで無い男性。半年後にこの契約は一方的に破棄され、不動産は英国系白人家族へ払い下げられた。売り上げは国費召し上げとなった。
1942年、王室騎馬警察(公安)は日系住民に三つの選択肢を勧告した。
- カナダ国籍家族を含めた全ての日系人の日本への退去
- 子女は一時的な強制収容所へ、男性は鉄道建設へ
- 家族で残る場合はマニトバ州農協の斡旋の元、農家へ奉公
一時収容施設の状況。強制退去前に妊娠しており、こう言った強制収容所で誕生した子供もいたという。風呂や衛生設備に乏しく、居住環境は劣悪だったという。
三木氏は日本人差別の真っ只中の1936年に誕生し、マニトバへ移住した頃には4歳であった。そのまま砂糖大根農家で終戦まで勤務して、苦学して数学学士となり教師になった。その後校長を歴任し、日系カナダ人の名誉挽回への活動を始める事になった。
三木氏、廣瀬氏などは交渉を続け、日系人迫害に疑問を呈していた多くの英国系やフランス系カナダ人、そして同じ敵国ながら接収や強制送還の影響を受けなかったドイツ、イタリア系カナダ人の支援を受け、三木氏は革新保守党の政権下のカナダで日系カナダ人国民に対する個人的な金銭補償に合意し、現在に至る。日本ではあまり知られていない在外日本人の苦悩の話であった。
イベントに参加されていた山野内日本国特命全権大使と。奥に三木氏がたまたま写っている。
私や私の妻がこの様に和装で街を歩き、日本人としての文化を継承できるのも彼ら日系人の先人たちの活躍のおかげである。




