このブログに書き込んでいるシリーズも36回目を迎えました。
その間、様々な登場人物に焦点をあてて検証していますが、書き込み者のオジサンは『どうも、正力松太郎が元凶のようだ!!』としてこのパズルをすすめています。
ところが、わが国が<原子力>に頼ろうとする構図には、国民を僕にした【政治家・官僚・学者・業界】のスクエア(四角関係)が総ぐるみでアリの蜜に群がっているようです。
上に掲げた構図は、簡略化したものですが『正力松太郎』はこのスクエアの構図を発祥しただけであって、それに巣食った者達が今回の東京電力福島第一発電所による放射能飛散の原因を作っているいるようです。
ゆえに、御用学者にまつわる業界がいて、指令を発する官僚たちは国民からの利用料金を吸い上げる構造システムを考え出したに過ぎないようです。
そして彼らは、これらの業績に応じて業界への天下りを割くしているようでなりません。
さて、『正力松太郎』のことをもう少し追跡する必要があります。
何故なら、これまで検証してきたように彼が行ってきた行為は、単なる<原子力>の普及というところではなく、原点は【読売新聞の普及拡大】というところが主標であったように思えてなりません。
彼の足跡の出発点は、警視庁の警務部長時代の<虎ノ門事件>によって懲戒免職されたにもかかわらず、<番町会>という財界組織の援護を受け実質的に『後藤新平』からの10万円という後に千古の美談といわれる買収資金を仰ぐことができました。
当時、読売新聞に乗り込んだ時の発行部数は3万部とも5万部ともいわれ、関東地区での新聞業界では末席に甘んじる結果で運転資金にも事欠くありさまでした。
ところが、昭和10年には東京帝国大学で同級生であった東急電鉄の『五島慶太』に多摩川園での<菊人形展>を持ちかけ、地域における読売新聞の拡大に大きな貢献を手始めにイベントの読売として売り出すことになりました。
この手法は、現在の読売新聞が主催する毎年正月の『東京~箱根往復大学駅伝』で見られるように、日本テレビ・報知新聞との共催によって二日間朝から晩まで聴取者を釘づけにしていることでもおわかりの通りです。
読売新聞の販売部数は、イベント企画の実施とともに拡大し続けて行きますが、ちなみにその後の部数拡大は以下の通りです。
大正14年 5万部
昭和 1年 9万部
昭和 2年 12万部
昭和 3年 14万部
昭和 4年 18万部
昭和 5年 22万部
昭和 6年 28万部
昭和 7年 34万部
昭和 8年 50万部
昭和 9年 57万部
昭和10年 67万部
昭和11年 76万部
昭和12年 88万部
昭和19年 192万部
という驚異的な伸びになって行き、この時朝日・毎日・読売という三大新聞にまでにのし上がって行ったようです。