身体障害の基準というものに対して、
敏感になってから、
「重度」「軽度」という言葉が耳に障るようになった。
というのも、自分の身体のことを語る
他人の言葉がうまく呑み込めないからだ。
私の視力障害は、「身体障害者」でいう
視覚障害の基準の級数からすると、軽度に該当する。
基準を満たすか、満たさないかというところであるし、
実際、普通に生活できている。
なので、障害について人に話すと
「軽度」だから…といわれる。
でも、正直、その見方は本人の私からすれば、
安易だと言わざるをえない。
軽度とか重度とかって何?って思う。
だって、私にとっては、
重度や軽度の問題じゃなく、
いつだってこれは重大な問題なんだから。
そもそも、私が「健常者」として
これまで生活してきて現在があるのは、
紛れもなく、長い年月をかけて育ってきた過程で
たくさん「慣れ」を経験してきたことが活きている。
文字に目を近付けて、
周囲と同じように小さな文字を読みこなすことで、
同じように勉強することで、
なんとかやってこれた。
ただ、その時間の中には、
やりたかったクラブ活動や就きたかった仕事、
アルバイト、等をいくつもあきらめてきたという
苦い苦い経験が含まれている。
誰にも話さなかった、その経験は
胸に痛みをもたらす。
視力がなければできないという理由で、
どれだけ私は自分の気持ちを抑え込んできたんだろう。
数知れない。
やりたいと抱いた夢が生涯叶うことはない。
現実的にできないと思うことだって多々あった。
人生の途中で病気になったとか、
老いて自然と発症したとか
事故にあったとかいうのではなく、
生まれつきの原因不明のものを背負ってきた私には、
進路を選ぶ学生時代の時点から
既に選択肢が制限されていた。
事実に気づいたその瞬間から。
精神的な負担から見れば、
それを「軽度」だなんてとてもいえないし、いってほしくない。
普段、あれこれが不便だなんて、
たいてい人に向かって言ったりしないけれど、
本当は視力が使えないことで、
毎日不便を感じることはあり、
それは未だに慣れることがない。
たとえば、パン屋や本屋で見かけるポップ。
それらを見たいときには、
よほど近づかないと見えないし、
駅の路線図表示の看板は小さくて見えないので、
切符の販売機の横にある表で
いつも乗車料金を確認している。
バスを待つ時もどこ行きのか表示や時刻表を見るには、
やっぱり近づかないといけない。
基本的に文字が小さいと、何が書いてあるのか見えにくい。
多分他の「健常者」だったら容易に見えるんだろうけど。
街のあちこちに、
私にとっての見えない、読めない、
のバリアはあふれている。
軽度とか重度とかいう区別の以前に、
この社会という場には、
他人の痛みを察することのできない人が多すぎると思う。
目以外の部分には症状を持っていない私が、
その痛みを持っている人の気持ちを
推し量れないのと同様に。
無難な生き方をしている人は、
結局、自分が痛い目に遭わないとわからない。
不自由を経験したことのない人にはわからない。
どんな言葉が人を傷つけるのかわからない。
そして、そういう人に囲まれて、
理解が得られないまま過ごす身障者の心は
頑なになっていくんだろう。
……そんなことに悩むこともなく、
過敏でもなく、鈍感でもなく
程よく生きられたらいいのに。
社会という空間では、
「基準」という一定のラインで
何でもかんでも決められる。
けれど、本来は同じ人なんて誰一人としていないはずで、
大多数存在することが標準として挙げられているに過ぎない。
「一般の基準」に沿わない私の視力は、
不本意に人を不安にさせるけど、
私には他人に合わせたモノサシで、
一律に統一する「基準」に縛られないといけないことが
窮屈に思えて仕方ない。
もっと柔軟で開放できる世界にいきたい。
ただ願うだけ。
痛みを知っているからこそ、
声に出して言いたい思いがここにある。