人々の生活に欠かせない存在バオバブ。
食料や医療品などに、
枝や葉、美などあらゆる部分が使われている。

舞台となっているアフリカ地域に暮らす人々は
多くの動植物と共に生きている。
道路はコンクリートではなく砂、
そこに走るのは車ではなく家畜、
市場で作物等を売り、家では家畜や畑から食料を調達する。

日本の都市の暮らしとは随分かけ離れた光景。
だけど、本当の豊かさや幸せって
本来こういうことにあるのじゃないのかな…。
見ていて、感じた。

どんなに人の手をかけない便利な暮らしを実現したとしても、
それは人工的なものに依存した生き方でしかなくて、
自然と乖離している暮らし。
自給自足と分業、彼らがもし
両方の生活のあり方を知っていたら、
どちらを選ぶのだろう。

ただ、家事に時間をかけると、生活上できないことがある。
学校に行って勉強ができない子どもたちがいる。
それはそれで、複雑な思いを抱く。

本来あったはずの自然に寄り添う生活の風景はどこか穏やかで、
言葉に表せない気持ちをもたらしてくれた。
自分が「障害」を抱えているにもかかわらず、
障害を抱えている人に対して偏見を持っている。
最近、そんなことを痛感してしまう。

身体的なことって人によって違うし、
本来、比較することじゃない。
なのに、人と話すとき、
「私は誰々と違って~」という言葉を
思いがけず使ってしまっている自分にふと気付く。
どうにか自分を擁護したいという
意味合いが含まれているような、
そんな言葉を使ってしまう、自分が醜い。
使って気付いた後、「しまった」と後悔して反省する。

ひとつ確かなことを言うとすれば、
それは、自分がハンディを持っていたら
必ずしも人に対してやさしくなれるとは限らないということ。
自分の痛みを良い意味で誰かに還元できる、
他人の痛みにそっと寄り添える人もいれば、
そうではない人もいる。
そう認めざるを得ない。
もしかしたら、私は悪い意味での還元を
してしまっているかもしれない。
「障害なんて」という歪んだ見方。

結局、自分と人とを比べることで
心のどこかで安堵して、
自分に優越感を煽ったり、
自分の弱さを認めようとしていないところがあるような。
そんな気がする。

「私は他の人と違って~、」なんていう言葉、
本当は使いたくない。
自分の言葉に自覚もなく過ごしていたとしたら、
とても怖いことだと思う。
自分が言われたら嫌なことを人に言うなって
よく言われることだけど、
自分が偏見もたれたり、同情されたりするのは嫌なのに、
他人に対して偏見の目を向けたり、
同情したり差別的な見方をするのは、勝手すぎること。

自分の中のわだかまり、なかなか変えられないけれど、
もう少しやわらかい気持ちで、
言葉を大切にできるようになれたらいいのにな。

身体障害の基準というものに対して、

敏感になってから、
「重度」「軽度」という言葉が耳に障るようになった。
というのも、自分の身体のことを語る

他人の言葉がうまく呑み込めないからだ。

私の視力障害は、「身体障害者」でいう
視覚障害の基準の級数からすると、軽度に該当する。
基準を満たすか、満たさないかというところであるし、
実際、普通に生活できている。
なので、障害について人に話すと

「軽度」だから…といわれる。

でも、正直、その見方は本人の私からすれば、
安易だと言わざるをえない。
軽度とか重度とかって何?って思う。
だって、私にとっては、

重度や軽度の問題じゃなく、
いつだってこれは重大な問題なんだから。

そもそも、私が「健常者」として

これまで生活してきて現在があるのは、
紛れもなく、長い年月をかけて育ってきた過程で

たくさん「慣れ」を経験してきたことが活きている。
文字に目を近付けて、

周囲と同じように小さな文字を読みこなすことで、
同じように勉強することで、

なんとかやってこれた。


ただ、その時間の中には、
やりたかったクラブ活動や就きたかった仕事、
アルバイト、等をいくつもあきらめてきたという
苦い苦い経験が含まれている。
誰にも話さなかった、その経験は

胸に痛みをもたらす。
視力がなければできないという理由で、
どれだけ私は自分の気持ちを抑え込んできたんだろう。
数知れない。
やりたいと抱いた夢が生涯叶うことはない。
現実的にできないと思うことだって多々あった。

人生の途中で病気になったとか、
老いて自然と発症したとか
事故にあったとかいうのではなく、
生まれつきの原因不明のものを背負ってきた私には、
進路を選ぶ学生時代の時点から

既に選択肢が制限されていた。

事実に気づいたその瞬間から。
精神的な負担から見れば、
それを「軽度」だなんてとてもいえないし、いってほしくない。

普段、あれこれが不便だなんて、
たいてい人に向かって言ったりしないけれど、
本当は視力が使えないことで、
毎日不便を感じることはあり、
それは未だに慣れることがない。


たとえば、パン屋や本屋で見かけるポップ。
それらを見たいときには、

よほど近づかないと見えないし、
駅の路線図表示の看板は小さくて見えないので、
切符の販売機の横にある表で

いつも乗車料金を確認している。
バスを待つ時もどこ行きのか表示や時刻表を見るには、
やっぱり近づかないといけない。
基本的に文字が小さいと、何が書いてあるのか見えにくい。
多分他の「健常者」だったら容易に見えるんだろうけど。
街のあちこちに、

私にとっての見えない、読めない、

のバリアはあふれている。

軽度とか重度とかいう区別の以前に、

この社会という場には、
他人の痛みを察することのできない人が多すぎると思う。
目以外の部分には症状を持っていない私が、
その痛みを持っている人の気持ちを

推し量れないのと同様に。
無難な生き方をしている人は、
結局、自分が痛い目に遭わないとわからない。
不自由を経験したことのない人にはわからない。
どんな言葉が人を傷つけるのかわからない。
そして、そういう人に囲まれて、
理解が得られないまま過ごす身障者の心は
頑なになっていくんだろう。
……そんなことに悩むこともなく、
過敏でもなく、鈍感でもなく

程よく生きられたらいいのに。

社会という空間では、

「基準」という一定のラインで

何でもかんでも決められる。
けれど、本来は同じ人なんて誰一人としていないはずで、
大多数存在することが標準として挙げられているに過ぎない。
「一般の基準」に沿わない私の視力は、
不本意に人を不安にさせるけど、
私には他人に合わせたモノサシで、
一律に統一する「基準」に縛られないといけないことが

窮屈に思えて仕方ない。
もっと柔軟で開放できる世界にいきたい。

ただ願うだけ。


痛みを知っているからこそ、
声に出して言いたい思いがここにある。