エホバの証人の尋ね人

エホバの証人の尋ね人

連絡をとりたいと思っている方々へのメッセージです。

もう長く連絡が途絶えてしまっていますが、
わたしは何にも変わっていません。
かつて交わっていた人に会いたい気持ちでいっぱいです。

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Kちゃんは、私の現役当時同じKHを使う隣の会衆に他所の土地から引越して来た同い年の女の子でした。
Kちゃん4人家族だったけど妹さんと2人だけJWで、一世でしたが(私が現役だった時は一世二世の差を考えたことはほとんどなく、どちらかというといわゆる霊的⁈な交流は一世の人との方が多かったかも。アメブロ会衆に来てからふた方の感じ方の違いを知りました。)、

一緒にお茶したりしてもあんまり違和感がなく、他所から転入したもの同士で会衆内とその土地柄の問題点を愚痴り合ったりして意気投合したのでした。ここへ引越してから前の会衆の友達と離れてずっと寂しかったけど、やっと心を許せる友達が出来たのでとても嬉しかったのを覚えています。
よくロイヤルホストで遅くまでおしゃべりしたよね(^_^)。
妹さん姉妹が先に結婚したので、余計に一緒に遊ぶ時間が増えたんだったかな?


お互いに開拓奉仕を頑張っていましたが、私が半年で外国語会衆から戻って来てから心身共に調子が悪いなと感じてた時にたまたまスーパーかどこかでバッタリ会って、

いやKちゃんはその時パン屋さんで働いていたから私がそこに行ったのかもう忘れちゃったけど、調子悪いこと言うと、Kちゃんも似たような症状で(もしかしてプチうつ?的な)、JWに理解があるお医者さん知ってるから一緒に行こうと誘ってくれて、、車で1時間半~2時間かかる病院へ運転を交代しながら行くことになったのでした。

自分がなんとなく鬱かもって思っていても、一般の医者にわかってもらえるように説明する自信がなかったしお薬への抵抗もあったので、あの時誘ってもらわなかったら病院へは行けなかったかもしれないので、Kちゃんのおかげで薬も飲むようになれたのでした。

何度か一緒にその病院へ通いましたが、遠いから大変でしょうと、先生が近所で薬を貰えるようにしてくれたので良かったのですが、ドライブがてらの通院は落ち込みがちなその時期の数少ない楽しみでもあったのです。

それから私の方がどんどん体の限界が来て開拓を降り、寝込む生活がやって来ました。でも集会には参加していたし、具合悪いことをその頃にはほとんど人に話さなかったから、一番私が苦しかったどん底の時期を知っている人は家族以外にはいませんでした。

そして転地療養のためにI会衆に引越しして、そこで排斥となったのですが、
直後は復帰するつもりだったので、その事をKちゃんには話しておきたいと、待ってて欲しいと思って電話したら、排斥後だと知っていたにもかかわらず、戸惑いもあっただろうけど私の話を最後まで聞いてくれた事、救われました。


でも隔離された生活をするうちに復帰する事は私の意思にそぐわないことを感じるようになり、
組織の真実を知って本覚醒するにはもっと数年後になるのですが、

戻らない事を決めてからしばらくして、

Kちゃんが結婚して近隣の会衆へ移ったこと、それからしばらくして夫婦で一時的な奉仕として海外に行って帰って来た事を知りました。


一緒に過ごしていた間は、それぞれの会衆内でのさばる変な長老や愛のない長老たちが異常だと思う目線が一緒だったKちゃんだから、

もしかしたらもう覚醒しているかもしれない、ですね。




私のバプテスマは関西大会ホールの、舞台裏にある奥まったプールでした。
日付は4月26日、中学一年生になったばかりの頃です。

当時日本のエホバの証人は増加傾向にある頃でしたが、その時の大会では(はるか昔の事でうろ覚えですが)バプテスマを受けた人数は少なかったように記憶しています。


で、歌を歌い終わった後、拍手の中をプールへ歩いて行って確か更衣室の中で、
声をかけてくれたのが、なみえちゃんでした。

かなり無愛想だった私の反応を気にせずに話かけてくれて、同い年だとわかりそれから始まった文通からなみえちゃんの信仰に鼓舞されて行ったのでした。

私は会衆内の他の2世達とは割と仲が良いほうだと思いますが、
エホバへの熱心さの点ではちょっと浮いた存在であるとの自覚もあって、

その辺りでは寂しさを感じたりすることもありましたが、
なみえちゃんとの交流でそれが埋め合わされたのでした。

一緒に岡山県だったかな?未割り当て区域の奉仕に夏休みに参加して、

1日の奉仕を終えて宿舎に返り、
家の人から頂いた、普通の3倍はあるキュウリをマヨネーズをかけて丸かぶりした、 
当時中学生だった二人を覚えています。


高校生になる頃だったか、だんだん文通の回数も減ってしまい、巡回区の編成替えによって大会でも会えなくなって、

私も自分の暮らしに流されて
知らない間に疎遠になってしまいました。

開拓奉仕を初めてから、
時折、「なみえちゃんどうしているかな」なんて思い出すことがありましたが、

忙しさから、そのままになって、、
20代半ば頃だったかな?名古屋にいるということを風の便りに聞いたのでした。


あの頃の信仰は偽りではなかったけど、
今となっては、そこから脱出してなみえちゃんの自分の幸せを掴んでいてほしい、

そうなっていて欲しい思いでいっぱいです。



3人目のパートナーと生活していた時、

たまの息抜きに近隣の日本語会衆に参加したいと、
パートナーだった姉妹が希望したので
住んでいたアパートがある区域の日本語会衆に交わった時が、
まだ独身だった坂原姉妹と初めてお会いした時です。

独身とはいえ、バツイチだったのか?詳しくは知りませんが、成人された娘さんがいてオシャレで元気でずけずけものを言う私の好きなタイプの方でした。

時折、手土産を持ってアパートにも訪ねてくださったりしました。

その土地を離れる時に坂原姉妹には知らせなかったのですが、
数年後に全く別の場所で再会しました。


なんと、
沖縄県へ4泊の旅行に行って交わった先の会衆に、坂原姉妹はおられました。
もうそこに住んでおられたのでビックリです。
きっと坂原姉妹のところにはお客様が多かったから私の事はあまり記憶にはないかもしれませんが、その時の集会の帰りに自宅に招いてくださいました。

次の年の沖縄旅行には、
私と、パートナーを組んでた姉妹2人の合計3人で行ったのですが、

私は坂原姉妹には沖縄到着後連絡を取り、
その日の午後にちょうど都合が空いているとのことで、ホテルのレストランへ来てもらい4人でお茶をしました。
色々近況を報告して行くうちに、坂原姉妹が近いうちに結婚して島内南部へ引越しをする、というではありませんか。

で、気になるのはそのお相手。

実は、
一緒に来ていたパートナー姉妹達には、
別に私の知らない人物と会う予定が旅の後半にあったのですが、

話を進めながら、だんだんとわかったこと、、
なんと坂原姉妹のお相手はなんと、旅の後半に会う予定だった兄弟なのでした!ビックリ!!


当時お二人ともアラフィフで、驚きもありましたが、私達の喜びも大きくて、そのお茶の時間は記憶に残るひとときとなりました。

坂原姉妹とお会いした次の日にその勝田兄弟に私達3人は瀬底島へ連れて行ってもらいました。 


さらに次の年には、一人沖縄旅行でしたが、5日のうち一泊は勝田ご夫妻の新居に泊めて頂き、交わりを楽しんだのですが、

この頃にはお二人の海外移住計画が始まっており、WT協会を通して海外の必要の大きな区域の紹介を待っているとのことでした。

日本とオーストラリアの間の熱帯の島々で成る任命地に決まったのはそれから1年以上たった後ですが、

私はその頃いろいろな面での限界を迎えており、もう自分で解決策を見つけることができない状態で、、
でも親身になってくれてなおかつ答えを知ってる人がいないと思った時に思い出したのが、
人の為に自分を与えていた勝田兄弟でこの兄弟なら悩みを打ち明けたい気持ちになったので、電話してみました。

それは、海外出発の2週間ほど前のことでした。
今日は、洗濯とご飯の用意以外は
一日パソコンに向かっていた。

といっても、書きたい事には筆が乗らず   この場合は指が乗らず、というのかな?

「尋ね人」のテーマで書きたい人、まだまだいるんだけどな。

ネット内おもにアメブロばっかり、あっちうろうろこっちうろうろしていただけ。

でも私は、こんな一人でお籠りしている日が結構好きだったりする。

夫が休みの日は、一緒にいたいし一緒にお出かけしたいけど、

こんな日もとても大事。

あ、休みの日、一人になりたいときはちゃんと言ってね。
でも、なんだか夫も私と一緒に居たいとに思ってくれているように、
見えるんだけど、

都合よく考え過ぎかな?