さて~、北海道の歴史のつづきじゃ。今でもこんな話が残るんじゃ。
「15世紀中頃から19世紀中頃までの間、アイヌモシリに和人の渡来が増えるに連れ、松前藩や交易における商人の横暴、搾取などにより、アイヌの生活は著しく圧迫されました。」(アイヌの歴史より)
倭人たちは、鮭などの数をかぞえる際、「はじめに、一つ、二つ、三つ・・・やすみ・・・八つ、九つ、十、おわり」と実際は「はじめに、やすみ、おわり」と3匹も多くカウントして、実質3割り増しで取引していたらしいんじゃ。こんな話が語り継がれるくらいあくどい交易をしていたようだ。実直なアイヌ民族をかなりだまし続けていたようじゃ。明治以前は、
北前船が頻繁に北海道の昆布などを上方に運んでいた。そして、莫大な財を築いた北前船は、はるか遠くの沖縄との交易の際に、昆布を運んでいた。北と南に分かれた日本の先住民族は「昆布」でつなっがっていた。沖縄の人たちは、北海道の上質な昆布を貴重品として消費していた。

いまでも、北海道でとれた昆布の最大の消費地は沖縄であり、
「昆布」だけを取り上げてもそんな時代背景があるんじゃ。だから勉強が大切なのじゃ。若者たちよ、「
好きこそ物の上手なれ」からはじめるのじゃぞ。嫌な物は身に付かんしストレスが溜まるでな~。
さて、明治初期の北海道の人口は、12万人だった。明治後期には50万人くらいに急に増えている。政府が開拓政策を打ち出し、貧しい農民に自分の土地が持てると「甘い話」で入植者を募っんじゃ。「
北の零年」は、その物語じゃ。もうひとつの「北のゼロ年物語」と名づけた理由は、またの機会に語ることにする。さて、「
うまいものと石炭」で港町小樽と産炭地の関係を話した。今度は、産炭地の実態についてじゃ。機械化されていない時代に、石炭を掘ることは、危険な仕事、汚れる仕事で人力が全てであり大変であった。そこで
強制労働というかたちが持ち込まれる。徐々に、
帝国主義によって、中国人や朝鮮人がエネルギー源確保の為に炭鉱に動員されることになるんじゃ。「支配する側が、自由に彼らを使うことになる」ことは予測できる。一番危険なところ、最先端に導入される。労働条件は、「たこ部屋」といわれるくらい悲惨だったらしいんじゃ。今のように、『在日』といって区別(差別)していなかったから、中国人や朝鮮人も日本国籍で、犠牲になった人数は明らかではない。でも、相当いたと思われるんじゃ。今も、私(夕張)のところには、
慰霊碑が置かれている。私は、反省する。時代背景がどんな状況であっても、「人間を人間らしく扱わなかった」時代があったことを体中にしみこませているため、犠牲になった彼らの「嘆き」「悲しみ」「恨み」「怨念」が分かるんじゃ。もちろん、事故でなくなった人たちも同じじゃ。その魂を癒す為にも、どうしても今だからこそ、その痛みをあえて知っていただきたいんじゃ。私(夕張)が良くなる為に、どうしてもしなければならないことなんじゃ。そんなことを考えながら、札幌にある
朝鮮総連を尋ねたんじゃ。日本では、終戦(敗戦)というが、彼らは、「解放」という。その言葉は、こころから出た喜びの表現だろうと思うんじゃ。最近、「
北朝鮮」が一杯話題になっているようじゃな~。
朝鮮戦争で当時の世界の勢力によって、せっかく日本からの「開放」で故郷に戻った人たちも含めて、「北と南」に分断される事となる。しかも、
38度線で分断。「38度」といえば、何か思いつくことはないか?それは、人間の体温じゃ。「約38度を境によくもおかしくもなる」のじゃ。だから、
人間と地球は似ておるんじゃ。よ~く、覚えておくんじゃぞ。「韓流」といって、文化交流はいいことじゃが、歴史を忘れてはならんぞ。
在日朝鮮人と在日韓国人は、今現在、在日コリアンとして扱われいる。そのように、炭鉱の町には、歴史を勉強するためには、いい材料が一杯あるのじゃ。私のところにある「
石炭の歴史村」は、
第三セクター方式で運営されているが、これがまた、ピンチなんじゃ。私は思うんじゃ。「石炭・炭鉱の歴史を知らしめる施設だけは、手術で切り取らないでほしい」と。この施設の運営についての問題は残っているが、いわゆる「
コンセプト」的には、絶対、自信を持っているし必要なものじゃ。「ここだけは、絶対に譲れん」
つづく