1985年5月8日 ドイツ降伏40周年の日に西ドイツのリヒャルド・フォン・ワイツゼッカー大統領(後のドイツ統一初代大統領)の国会演説は、世界中の人びとに深い感銘を与えた。 By 小和田哲男
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全負が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。(拍手)非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。



上記の文章を引用したのは、「ナチスドイツが行った行為に関して、ドイツの代表者がその歴史的事実を受け入れ、難題を抱えながら、前向きに進もう」とする姿勢を見習ってほしいからです。夕張にも同じようなことが言えるからです。夕張の問題は、ドイツと違い、「たかがお金です」。夕張に縁のある皆さん、これからも夕張市民を温かく支援していきましょう。

さて~、北海道の歴史のつづきじゃ。今でもこんな話が残るんじゃ。15世紀中頃から19世紀中頃までの間、アイヌモシリに和人の渡来が増えるに連れ、松前藩や交易における商人の横暴、搾取などにより、アイヌの生活は著しく圧迫されました。」(アイヌの歴史より)

倭人たちは、鮭などの数をかぞえる際、「はじめに、一つ、二つ、三つ・・・やすみ・・・八つ、九つ、十、おわり」と実際は「はじめに、やすみ、おわり」と3匹も多くカウントして、実質3割り増しで取引していたらしいんじゃ。こんな話が語り継がれるくらいあくどい交易をしていたようだ。実直なアイヌ民族をかなりだまし続けていたようじゃ。明治以前は、北前船が頻繁に北海道の昆布などを上方に運んでいた。そして、莫大な財を築いた北前船は、はるか遠くの沖縄との交易の際に、昆布を運んでいた。北と南に分かれた日本の先住民族は「昆布」でつなっがっていた。沖縄の人たちは、北海道の上質な昆布を貴重品として消費していた。いまでも、北海道でとれた昆布の最大の消費地は沖縄であり、「昆布」だけを取り上げてもそんな時代背景があるんじゃ。だから勉強が大切なのじゃ。若者たちよ、「好きこそ物の上手なれ」からはじめるのじゃぞ。嫌な物は身に付かんしストレスが溜まるでな~。

さて、明治初期の北海道の人口は、12万人だった。明治後期には50万人くらいに急に増えている。政府が開拓政策を打ち出し、貧しい農民に自分の土地が持てると「甘い話」で入植者を募っんじゃ。「北の零年」は、その物語じゃ。もうひとつの「北のゼロ年物語」と名づけた理由は、またの機会に語ることにする。さて、「うまいものと石炭」で港町小樽と産炭地の関係を話した。今度は、産炭地の実態についてじゃ。機械化されていない時代に、石炭を掘ることは、危険な仕事、汚れる仕事で人力が全てであり大変であった。そこで強制労働というかたちが持ち込まれる。徐々に、帝国主義によって、中国人や朝鮮人がエネルギー源確保の為に炭鉱に動員されることになるんじゃ。「支配する側が、自由に彼らを使うことになる」ことは予測できる。一番危険なところ、最先端に導入される。労働条件は、「たこ部屋」といわれるくらい悲惨だったらしいんじゃ。今のように、『在日』といって区別(差別)していなかったから、中国人や朝鮮人も日本国籍で、犠牲になった人数は明らかではない。でも、相当いたと思われるんじゃ。今も、私(夕張)のところには、慰霊碑が置かれている。私は、反省する。時代背景がどんな状況であっても、「人間を人間らしく扱わなかった」時代があったことを体中にしみこませているため、犠牲になった彼らの「嘆き」「悲しみ」「恨み」「怨念」が分かるんじゃ。もちろん、事故でなくなった人たちも同じじゃ。その魂を癒す為にも、どうしても今だからこそ、その痛みをあえて知っていただきたいんじゃ。私(夕張)が良くなる為に、どうしてもしなければならないことなんじゃ。そんなことを考えながら、札幌にある朝鮮総連を尋ねたんじゃ。日本では、終戦(敗戦)というが、彼らは、「解放」という。その言葉は、こころから出た喜びの表現だろうと思うんじゃ。最近、「北朝鮮」が一杯話題になっているようじゃな~。朝鮮戦争で当時の世界の勢力によって、せっかく日本からの「開放」で故郷に戻った人たちも含めて、「北と南」に分断される事となる。しかも、38度線で分断。「38度」といえば、何か思いつくことはないか?それは、人間の体温じゃ。「約38度を境によくもおかしくもなる」のじゃ。だから、人間と地球は似ておるんじゃ。よ~く、覚えておくんじゃぞ。「韓流」といって、文化交流はいいことじゃが、歴史を忘れてはならんぞ。在日朝鮮人と在日韓国人は、今現在、在日コリアンとして扱われいる。そのように、炭鉱の町には、歴史を勉強するためには、いい材料が一杯あるのじゃ。私のところにある「石炭の歴史村」は、第三セクター方式で運営されているが、これがまた、ピンチなんじゃ。私は思うんじゃ。「石炭・炭鉱の歴史を知らしめる施設だけは、手術で切り取らないでほしい」と。この施設の運営についての問題は残っているが、いわゆる「コンセプト」的には、絶対、自信を持っているし必要なものじゃ。「ここだけは、絶対に譲れん」 つづく

さて~、北海道の歴史のつづきじゃ。今でもこんな話が残るんじゃ。15世紀中頃から19世紀中頃までの間、アイヌモシリに和人の渡来が増えるに連れ、松前藩や交易における商人の横暴、搾取などにより、アイヌの生活は著しく圧迫されました。」(アイヌの歴史より)

倭人たちは、鮭などの数をかぞえる際、「はじめに、一つ、二つ、三つ・・・やすみ・・・八つ、九つ、十、おわり」と実際は「はじめに、やすみ、おわり」と3匹も多くカウントして、実質3割り増しで取引していたらしいんじゃ。こんな話が語り継がれるくらいあくどい交易をしていたようだ。実直なアイヌ民族をかなりだまし続けていたようじゃ。明治以前は、北前船が頻繁に北海道の昆布などを上方に運んでいた。そして、莫大な財を築いた北前船は、はるか遠くの沖縄との交易の際に、昆布を運んでいた。北と南に分かれた日本の先住民族は「昆布」でつなっがっていた。沖縄の人たちは、北海道の上質な昆布を貴重品として消費していた。いまでも、北海道でとれた昆布の最大の消費地は沖縄であり、「昆布」だけを取り上げてもそんな時代背景があるんじゃ。だから勉強が大切なのじゃ。若者たちよ、「好きこそ物の上手なれ」からはじめるのじゃぞ。嫌な物は身に付かんしストレスが溜まるでな~。

さて、明治初期の北海道の人口は、12万人だった。明治後期には50万人くらいに急に増えている。政府が開拓政策を打ち出し、貧しい農民に自分の土地が持てると「甘い話」で入植者を募っんじゃ。「北の零年」は、その物語じゃ。もうひとつの「北のゼロ年物語」と名づけた理由は、またの機会に語ることにする。さて、「うまいものと石炭」で港町小樽と産炭地の関係を話した。今度は、産炭地の実態についてじゃ。機械化されていない時代に、石炭を掘ることは、危険な仕事、汚れる仕事で人力が全てであり大変であった。そこで強制労働というかたちが持ち込まれる。徐々に、帝国主義によって、中国人や朝鮮人がエネルギー源確保の為に炭鉱に動員されることになるんじゃ。「支配する側が、自由に彼らを使うことになる」ことは予測できる。一番危険なところ、最先端に導入される。労働条件は、「たこ部屋」といわれるくらい悲惨だったらしいんじゃ。今のように戸籍がはっきりしない為、犠牲になった人数は明らかではないが相当いたと思われるんじゃ。今も、私(夕張)のところには、慰霊碑が置かれている。私は、反省する。時代背景がどんな状況であっても、「人間を人間らしく扱わなかった」時代があったことを体中にしみこんでいるため、犠牲になった彼らの「嘆き」「悲しみ」「恨み」「怨念」が分かるんじゃ。もちろん、事故でなくなった人たちも同じじゃ。その魂を癒す為にも、どうしても今だからこそ、その痛みをあえて知っていただきたいんじゃ。私(夕張)が良くなる為に、どうしてもしなければならないことなんじゃ。そんなことを考えながら、札幌にある朝鮮総連を尋ねたんじゃ。日本では、終戦(敗戦)というが、彼らは、「解放」という。その言葉は、こころから出た喜びの表現だろうと思うんじゃ。最近、「北朝鮮」が一杯話題になっているようじゃな~。朝鮮戦争で当時の勢力によって、せっかく日本からの「開放」で故郷に戻った人たちも含めて、「北と南」に分断される事となる。しかも、38度線で分断。「38度」といえば、何か思いつくことはないか?それは、人間の体温じゃ。「約38度を境によくもおかしくもなる」のじゃ。だから、人間と地球は似ておるんじゃ。よ~く、覚えておくんじゃぞ。「韓流」といって、文化交流はいいことじゃが、歴史を忘れてはならんぞ。在日朝鮮人と在日韓国人は、今現在、在日コリアンとして扱われいる。さて、炭鉱の町には、歴史を勉強するためには、いい材料が一杯あるのじゃ。私のところにある「石炭の歴史村」は、第三セクター方式で運営されているが、これがまた、ピンチなんじゃ。私は思うんじゃ。「石炭・炭鉱の歴史を知らしめる施設だけは、手術で切り取らないでほしい」と。この施設の運営についての問題は残っているが、いわゆる「コンセプト」的には、絶対、自信を持っているし必要なものじゃ。「ここだけは、絶対に譲れん」





せっかく小樽まで来たから、北海道の歴史について検証してみるかの~。だいぶ昔(大和朝廷のころ)のことじゃ。蝦夷(エゾとエミシという呼び方がある)を語るとき、「まつろわぬ民」について書かざるを得ない。そして、アイヌ民族側から見た歴史をしらねばなるまい。「持つものと持たないもの」で支配するものが現れた。当時の「もの」とは、どうやら稲作の生産技術であったようだ。今の時代に似ていて、「勝ち組と負け組み」ということじゃ。発達した生産方法で貴重なお米を手にした支配層は、自分たちの信仰(しきたり)を押し付けながら、勢力を広めていた。(従わない=祀らない=支配下に入らない=言うことを聞かない=税金を納めない)者たちを称して「まつろわぬ民」といって征伐対象にした。その方法が、かなりひどかったようじゃ。その時代の有名な人物が「坂上田村麻呂」じゃ。当時の支配層は、間違いなく箱根より以西にあったのは間違いなんじゃ。何故断言できるかというと「日本アルプス」と「箱根」は、自然の壁(進出する際の障害)であったからじゃ。そうやって縄文文化の継承民族であるアイヌ民族が、北へ北へ追いやられることになるんじゃ。「沖縄の歴史」について調べないと分からないが、同じ先祖を持つ「沖縄の人」が、南へ南へと追いやられたかどうかは定かでないが、きっと「平和主義」だった為に、当時の支配層に締め出されたことは予測がつくんじゃ。先住民族であるアイヌ民族側から見た歴史では、いわゆる支配層を「和人」と呼ぶ。『アイヌ民族は、かつては東北地方北部から北海道(蝦夷ヶ島)、サハリン(樺太)、千島列島に及ぶ広い範囲をアイヌモシリ(人間の住む大地)として先住していました。 15世紀中頃から19世紀中頃までの間、アイヌモシリに和人の渡来が増えるに連れ、松前藩や交易における商人の横暴、搾取などにより、アイヌの生活は著しく圧迫されました。』(社団法人北海道ウタリ協会

========北海道には、忘れてはならないアイヌの歴史があるんじゃ。========
第一章・・・第一部 私の名前は、「夕張」・・・最近、からだだけではなく、
私は、体調だけではなく、ちょっと、ピンチなんじゃ。みんなとおんなじ。それは、お金じゃ。ちょっと使いすぎての~、借りすぎたんじゃ~よ。今のところ、何とかして返そうと思案しておるが、親玉(国)がうるさくての~、無理難題を押し付けるのじゃ。ちょっと前までは、私の力=エネルギー(石炭)を、かなり当てにしていたくせに、今となっては、遠い昔のお話。「知らんぷり」しておる。そんな私は、もう体力がすっかりなくなってしまった。途方にくれる毎日じゃ・・・。だから、こうして語るのじゃ。口は、かなり達者だからな~。さ~て、今日は、何を話そうかな~。
「うまいもの」と「石炭」っていうのは、どうじゃな~

この間、小樽に行ってきたんじゃ。そこでな、わしのところにもある名物「ぱんじゅう」の看板を見かけたんじゃ。「まねしおって」と思い、勇んで、「西川ぱんじゅう」のおやじさんに聞いてみたんじゃ。そしたらの~、そのおやじさんなかなかの人物での~、焼き上がるまでのちょっとした時間で、為になることを一杯教えてくれたんじゃ。いや~、そのお話に感激したな~。だから、ちょっとだけ教えたるで。「西川のぱんじゅう」のご主人が、「なぜ、このようなぜいたく品が小樽に存在するのか知っているか」って聞くんじゃ。思わず言いそうになったんじゃ「夕張の名物で、まねしたんじゃろ」ってな~。つばを飲んで、だまって聞いていてよかったな~。====「ぱんじゅうは、菓子職人しか作れない和菓子で、ぜいたく品である。その昔(なまの歴史の話じゃぞ)、蝦夷と呼ばれていた時代、北海道の玄関は函館地方の松前藩であった。しかし、明治維新が起こり、西ヨーロッパの産業革命など19世紀を代表する蒸気機関などの技術が輸入されると、エネルギー源=石炭を求めて、はじめは、陸続きの場所から採炭が始まった。北海道の空知支庁近辺に石炭の鉱脈が見つかると、大手資本の旧財閥系がどんどん進出してきて石炭を掘り始めた。今は当たり前となったが、問題は「物流手段」、どうやって採掘した石炭を運ぶかが一番の課題となった。当時は、馬車が主流。量を運ぶのは、「船」であった。産炭地と港を結ぶ輸送網がどうしても必要だった。急ピッチで、鉄道網の建築が始まった。その後、北海道の岩見沢市は、産炭地の中継地として「鉄道の町」と呼ばれるほどになった。だから、(都会はさておき)田舎では、産炭地に、輸送が発達した分、情報と物資が持ち込まれることとなった。小樽は、石炭を本州(内地)に運ぶ為、北海道の玄関として栄え始めた。その証拠に、本州の企業の支社が小樽に乱立していたこともあり、いまは、その「立派な建物」を歴史的建造物として保存し利用して、小樽らしい景観を作っている。いま、お寿司などおいしいものを求める観光客でいつもにぎわっている。しかし、北海道の歴史の中で、小樽がになった役割について興味を持って、訪れる人は少ない。経済的事情で、小樽と産炭地は直結した関係にあった。夕張にぜいたく品である「ぱんじゅう」が伝わったのは、札幌などを除いて、炭鉱町は、大消費地でもあったからだ。また、今のように、娯楽が少なかった為、経済的にも豊かだった炭鉱町に住む人たちの楽しみは、「食べ物」だったに違いない。石炭とうまいものを交換していた。また、経営サイドの人たちも、本州から派遣されていた為に文化的にも北海道の他の地方よりも進んでいたかもしれない。炭鉱町の人たちは、おいしいものを知っていて当然だ。当時の保存方法は限られていたからな~。むかしの甘いものは「うまいもの」====

私(夕張)が、ぱくったんじゃの~。何事も勉強じゃ。「ぱんじゅう」だけでも学ぶこと多し。この際、北海道の歴史について勉強してみるかの~。 つづく


私の名前は、「夕張」(ゆうばり)。北海道地方では、毎日、テレビや新聞などでいろいろと私のことを「うわさしている」と聞いた。私は、最近というか、しばらく前からからだの調子がわるい。思い返すと、ちょっと昔の話になるが、明治初期から、体中のあちこちをいじくられ、「黒いダイヤ」を持ち去った連中がいたからだな~。それでも、この25年くらいは、私を突っつくやつらは他へ行ってしまったようだ。私の血液=「夕張川」は、それまでは、「真っ黒け」で、不健康そのものだったな~。なぜか分かるかな~。それは、「黒いダイヤ」=石炭を洗ってその水を夕張川に戻すからじゃ。いまは、そんな悪いことをする連中は、どこかに行ってしまって、せいせいしておった。そのかわり、私の血液を止めるやつらが出てきて(大夕張ダムの建設)、近いうち、血管が詰まる脳梗塞になりそうじゃ~。「自然破壊」と「人間の病気」には、相関関係・因果関係・・・?とにかく、関係があるのじゃぞ。言いたいことはこちらじゃ。そうそう、私の名前の由来について話しておこう。アイヌ語の「ユーパロ」(鉱泉の湧き出るところ)が語源といわれている。履歴書については、こちらを読んでくれ。たいした経歴ではないが、今となっては、ちょっと自慢できる過去を持っておるぞ。これから、私は、「語部(かたりべ)」として、もう一つの「北のゼロ年」物語を書き綴るつもりじゃ。吉永小百合さんが私のことを心配していると聞いて、うれしくてしょうがないのじゃ。私は、「映画関係」でもけっこう名前が知れ渡っているのじゃ。なんといったかな~ゆうばり国際ファンタスティック映画祭とかいったな~。私の体のあちこちに湿布を貼るように、「キネマ街道」とかいって看板を貼っているところがあったな~。今となっては、無駄遣いをしてしまったような気もする、ちっと反省猿じゃ。自慢話をすると、全国的に名が売れている果物もあるのじゃぞ。あまくておいしい赤肉メロンの「夕張メロン」じゃ。ちょっとだけ教えるが、夕張メロンの果肉の色は、何かに似ておるぞ。分かるかな~。それは、「かぼちゃ」、人間界では「代理出産」が話題になっておるが、接ぎ木(つぎき)という手法でかぼちゃに力を借りて作っているらしい、だから、かぼちゃのにおいがほんのりするのじゃ。高級品だから食べたことがないと思って、教えているのだ。と、ここまでは、強気の発言をしてきたが、私はもうけっこういい年じゃ。お願い事があるんじゃ。聞いてくれんかのう~。明治に入ってからず~と日本のエネルギー源を支えてきた町が北海道の空知支庁に集中している。みんな私の仲間じゃ。産炭地じゃ。ちからのある「黒いダイヤ」を一杯持っていかれてみんな「へとへと」状態じゃ。日本中の人がわしらの体力を奪ったんじゃ。だから、お願いじゃ、今困っている仲間を応援してほしいんじゃ。支援してくれや、頼むから。つづく