自由研究の「自由」の意味について考えてみた。
自由研究サポーターの湯淺和美です。嫌いな夏休みの宿題として上位に君臨し続ける「自由研究」ですが、その意義について、先日の『音読カップ』で気づきがありました。『音読カップ』についてはこちら我が子の味方になるってどういうこと? | yuak13のブログ (ameblo.jp)私は、音読カップの審査結果について納得できていない部分が大いにありました。審査員が講評で語った「音読は朗読であって朗読劇ではない」という審査基準について、音読カップに関わった全員の共通認識ではなかったのではないか?と感じたからです。もし共通認識であったならば1番の6年生が臨場感あふれる発表をしなかったのではないかと思うのです。小学生の大会であの仕上がりを大舞台で披露するには相当の時間をかけ練習したのが素人目にも明らかです。その努力や時間が評価されないという事実がショックでした。でも、冷静になってもしこれが大きなコンクールだったら?大学入試だったら?就職面接だったら?会社のコンペだったら?と考えてみたら、審査員や教授クライアントの好み大会の趣旨大学の方針企業のコンセプトなど事前にリサーチしたと思うのです。「結果」が欲しいならリサーチは必要です。自分の好みであろうとなかろうとそれらに沿うように作らなくてならない。そういえば同じようなことが大学でデザインを専攻していた頃にもありました。教授に誘われて県展の審査の手伝いをクラスメイト数人でしたときのことです。「デザインとは、何がしかを訴える力があり、かつ明るいものでなければならない」と、たった一人の審査員の好みによって入選と落選が振り分けられていきました。私はその審査のあり方に納得ができませんでした。でも、今思えば、あの頃の私は「その場」止まりで、複数の視点を持てていなかったのだと思います。受賞したい合格したい仕事をつかみたいなら、リサーチをし、その目的や意図に合うものを提示しなくては結果を得ることは難しいでしょう。ですがこのことは小学生の自由研究には当てはまりません。自由研究には審査員もクライアントもいません。賞を取ったり仕事をつかんだり「結果」を問われないのです。題材もやり方も、すべてが自由です。自由な場で自分の中の知りたい何かを見つめ方法を編み出し自分の力で解決していく。自分のやりたいことを自分の思う方法でとことん突き詰めればいい。自由研究というのは文字通り「自由」な素晴らしい体験の場なのだと思います。