卒業式の夢を見た。自分の使っていたロッカーが他人のものになることを考えるとどこかさびしい心地がした。学生として路を歩み、拘束があるからこそ逸脱に異常な快楽が伴う、とその夢の中で実感する。
「学生とは勉強するものである」
かくあるべしという役割を親や学校から科せられ、そして親を恨みながらも特にしたいことなどないことからその役割に従順に沿った結果、優秀な学業成績をおさめられていた。そして当時にたたずむことで制限があればこそ娯楽もまたその楽しさが赫うのだと思い出した。
卒業後、役割に従うことしか知らなかった自分はすべての役割を放棄することで自分に抜けていた何かを結果として手にすることとなった。……拘束と娯楽の関係の把握もその一つである。
いつから自分の好きな筆箱をなくしてしまっていたのかを考えている。思えば、気に入った筆箱をなくした頃から自分に課せられた役割のすべてを放棄していたような気がするのだ。大切にしていた何かの喪失を感じることさえ忘れてしまっていた。
人に課せられたことによる恨みももはや長年の役割の放棄から消え、では何が今の私に何を課すのかを問えば、資本主義社会とその倫理が法則となって神にも等しく私に経済人たることを課すのである。役割とその随順を喪失したあの日、今ふたたび役割を自覚したこの日。夢によってその二つがつながった。
思えば役割のない期間は、人のいない昼間、春の日差しに輝く桜の花弁に目を細めるような期間であった。それは決して空白というほどではなく淡く色づいている。役割のある日々はまるで鈍重な曇り空で覆われた日しかないように思えるが、白い壁と強い蛍光灯の光と空調が吐き出し続けるくぐもったような空気が私にそう感じさせるのかもしれない。鈍色もそう悪くはない。享楽で飽和した今の私にはそのように思えるのだった。