11/11 10:04
@悟澹 解毒《紅楼夢》的禅文化(ハードカバー版)に有名演員余少群が自ら序文を書いて本書を推薦しています。多くの雑誌に取り上げられました。この序文を載せたブログを共有します。リンクは http://weibo.com/p/1001593907912408944696
転発
生まれて初めての序文だ。文章はおおざっぱだが、まごころを込めて書いた。悟澹法師の新作『解毒《紅楼夢》的禅文化』がたくさん売れますように!
★8/14のミニブログで転発した悟澹法師の著書に、公子が序文を寄せました。
新装本の帯にしっかり公子の写真。
以下、序文を翻訳してみました。
余少群:なぜ私は自ら出家人に序を書いたのか
(原タイトル:余少群「紅楼夢の解毒、もはや毒と言う余地はない)
おそらく若いころから伝統文化を学んで来た由縁だろう、私は「紅楼夢」にはひとかたならぬ思い入れをもっている。だから初めて越劇の「紅楼夢」の舞台を見たあと、故郷の武漢を離れ長年学んだ漢劇を放棄することをきっぱり決意し、身一つで上海に行きゼロから越劇を学んだ。私の先生や家の者もふくめ多くの人が当時の私の行動を理解しなかったが、自分ははっきりわかっていた。ただ心の中にある「紅楼夢」のためだった。
残念なことにこれまでの俳優人生では「紅楼夢」の舞台という夢をまだ実現しておらず、宝玉を演じるという願いは叶っていない。そのための「病」にかかっている。「紅楼夢」に関するあらゆる言論と文章について、私は徹底的に追求しないと気が済まない。違う意見を持つ紅楼ファンに出会ったら必ずや一語一句こだわって反駁する。だから『解毒“紅楼夢”的禅文化』が私の前に現れたからには、決して見逃すわけにはいかなかった。
これまでも「紅楼夢」を解説する文章を読んできたが、この本の「解毒」の二文字は私を引きつけた。よって批判のまなざしと好奇の心をもって筆者について検索した。悟澹 出家人・作家・仏教雑誌副編集長・・・筆者の情報がずらっと現れてこの『解毒“紅楼夢”的禅文化』の本への興味がますます募った。さらに偶然にも彼は湖北人で、私たちは同郷人だった。
偶然は重なるものだ。ある時、私は寺院に友人を訪ね、そこで悟澹法師に出会った。言うならば世の中全てが縁でつながるということだろう、清茶を淹れたポット一つを囲んでごく少人数の良き友が座った。話をしている間、悟澹法師の様子は控えめで穏やか、礼儀正しく叡知があって話上手。歳に似合わぬ智恵と話しぶり。水をたたえたように澄んだ目で子どものような笑顔を絶やさず、世間のあらゆる煩悩を溶かしてくれるようだった。彼とおしゃべりをする時、私は傾聴するのを望んだ。
『解毒“紅楼夢”的禅文化』の本については、悟澹法師との交流を通じて私も多くを理解した。この本の中では、曹雪芹さんが「紅楼夢」で描いた三十余りの夢のような情景を取り上げている。悟澹法師は『毗婆沙』(仏教の注釈書)に記載されている夢についての五種類の解釈を引用して「紅楼夢」の人物や出来事を独自に分析しており、それはまぎれもなく智恵の啓発であった。曹さんは「紅楼夢」で筆を惜しまず存分に夢のような世界をたくさん描き出しているが、それは夢を通して世の中の人々を目覚めさせようと思っているのだ。まさに、チベット仏教ガギュ派の活佛(転生した尊い指導僧)であるカルマパが、その詩の中で「あなたに告げるのは本当に忍びないが、この世界はうたかたの夢に過ぎないのだ」と書いたように。感嘆を禁じ得ない。人はこの世に生きている間、必死に知恵や策を巡らせ、あらぬ考えに倒錯し、夢と現実を取り違えたりするが、生まれて死ぬまでが一場の夢であることからは逃れることができない。
かつて悟澹法師に「解毒紅楼を著した初志は何ですか」と尋ねたことがある。法師は、「人は一生のうち情や仇、愛や恨に出くわし、愛するものと別れたり怨み憎むものに会ったりする苦しみを味わうが、それらは重要ではない。大事なのは理解に出会うことだ。なぜ毒と呼ぶのかというと、我々は誰もが何らかの病態があるからだ。他人の不健康をなお笑う必要などあろうか。皆その背後には秘めた物語があり、それは他の人とは分かち合いたくないものだ。だから私の考えは、それらを掘り起こすのではなくただ理解しよういうことだ。」と言われた。(注1)
「楞厳経(りょうごんきょう)を読み終えてまだ香は冷めず、美しい夢の世界に入って禅楼(禅宗寺院の楼門)を見る」、私がとても好きな言葉だ。この言葉に照らし合わせれば、あるいは「紅楼夢」の啓示は私を浮世の夢から禅楼に至らせ、一抹の清香の風に変えて花魂の間を漂い巡らせてくれるのかも知れない。(注2)
このように思うと、私は宿屋の客室か心が落ち着く茶館で、悟澹法師に更にじっくりと紅楼の夢を解説してもらいたくなる。
この「紅楼夢の解毒」を読み終えれば、もう毒されているという余地はない。
(注1:私見です。人は何らかの煩悩があり、これを「誰でも病態がある」と表現している。「解毒」の「毒」とは、仏教でいう煩悩の根源。「解」は毒を理解して解き放つということだと思う。)
(注2:紅楼夢の最後で、宝玉は虚しい俗世を離れて出家する。「浮世の夢から禅楼へ・・・」、公子は出家した宝玉のように本質的な人生の真善美を求める生き方を望んでいるのではないか、と感じている。)

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