~In my life~ブログ深夜便

~In my life~ブログ深夜便

考え・想いの「つれづれ」書き。



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帰宅でのラジオで、いつものようにコロナのニュースが流れていて。

自分にとって、大変興味深い話をしていた。

 

コロナの対応1つとっても「過大&過小な評価」に分かれる。

その中で、SNSを発信源として互いの主張を述べている。

また、その両者が互いを攻撃しているのも目立つと。

 

しかし、大部分の人はコロナに関して自身の主張を述べていない。

どんな評価であろうが、片方の主張を攻撃する事など、全く無い。

 

むしろ、この何も語らない人こそが、生活の中でコロナと向き合っている

人で、うまく対応できている。

出来ない人の「不安」が、こうした過大&過小評価での理論展開や、

行動主張に表れている。という話でした。

 

この何も語らない人を、この論説者は「中庸」という言葉で例えていた。

 

そう「中庸」

 

中庸という言葉を調べてみると、こうある。

 

・どちらにも片寄らないで常に変わらないこと。

・過不足がなく調和がとれていること。

 

中庸の意味を調べていて再確認した事は、まさしくそういった人は、

強い心を持つ人なんだろうなと。

 

よく政治の中で使われている「声なき声」

本当は、そういった表に出ない声が、本来の色んな問題の中で、

生きる道標を教えてくれているのかもしれないなぁと。

 

人って誰でも。そう誰でも「不安」は持っている。

 

自分はよく、

「不安からくる臆病と傲慢は同じもの」と捉えていて、それが何かとは

言えないけれど、その不安から起こす行動が臆病になったり、

逆に傲慢になったりという行動に現れてくる。

 

中庸でいる。今で言う「ニュートラルにいる」というのは、それはそれは

難しい事なんだけど、難しさ故に強いし、生活の中で躓かない行動を

している人なんだろうなと思った。

 

自分には、とても出来ない事で、臆病と傲慢の中で答えを出しては

生きているみたいな存在なので、なかなかこれが難しい。

 

SNSを見ていて、

「あーこの人は(敢えてではなく)普通に中庸でいられる人なんだな」と

思う人と、自分と同じ人だなと思う人もいる。

 

どちらが自分にとっていいか、よくないか、という評価はしていなくて、

真ん中にある心を持つ人は、なかなか動じる心になる事は無いんだろう

なという、漠然とした自分なりの答えを持っているしかない。

 

けど、昨今の中傷誹謗、そして一個人の叩き合いを見ていると、

それだけでしんどくなる自分がいる。

 

その中で心がつぶやく「普通にしてればいいのに」って言うのが、

自分の思う中庸なんだろうね。

 

まぁ。自分が出来ていないのにも関わらず、そういう思いを持つ事も

あるので、なんともいえませんが。

 

中庸で入れる自分。常に変わらない自分。

 

このカテゴリ(このパターンならば)変わることはない自分がいるけれど、

このカテゴリではダメだな。ってのは分かっている。

 

それも自己の不安からくる行動であることも。

そして、それに後悔を持つこともない。

 

けどね。中庸でいられる自分が、

「どれほど楽な生き方の結果を生むことができるか」というのも、

今回のニュースを聴きながら思った事でした。

 

んー( ´_ゝ`)

定まらん言葉の羅列だけれど、そう思ったよ( ´_ゝ`)

 

ゆうさん

 

 

ひさびさのブログ。

今日は朝から家の雑用。天井の蛍光灯を全て新しいのに切り替えた。

窓を全室開けて、空気の入れ替えとともに。

蛍光灯って、それぞれ寿命の長さが(金額によって)違うから分からないけど、

よく言う「長寿命」ってタイプは、気をつけたほうがいいなと思った。

 

蛍光灯側のコネクト。ここがプラスチックなので、交換時期が遅れるとボロボロになって

床に飛散してしまうし、外れにくいし、男性でも手慣れていないと出来ない。

 

さて、一応全室の床もついでに掃除を済ませて今。

 

ディスカウントショップにて、レジ対応のお兄さんが、とても動作が遅いというか緩慢。

3列のレジで、女性の店員さんが3人以上お客さんを捌いているのに、彼は1人のお客さんを

ゆっくりゆっくり対応している。

 

お客さんのレジ待ちの流れが、必然的にその女性店員に流れる。

レジ対応の女性店員さんはパートさんだったんだろうか?店内放送で正社員?らしい

女性さんを呼んだ。

 

二言・三言言葉を交わした後に、その正社員らしき人がその彼をレジの合間に呼んで、

他人に聞こえるか聞こえないかくらいの声で「注意」されていた。

 

その後の彼は変わった。緩慢だったと思ってたんだけど、実は動作が遅い人だったんだ。

 

一生懸命やってるんだけど(その雰囲気は顔付きで分かる。)やはり、レジ対応は遅い。

 

けど、頑張ってるのならば。しょうがない。うん、しょうがないな。

 

最近、自分は「総括」という言葉を意識して使っている。

仕事は、片押し⇒「1つの事に集中してやるしかない」人間なので、どうしても仕事には

「スピードと集中」が求められる、仕事の中での自分。

その中で、心にある「隙間」を作りつつ、咄嗟の対応(電話対応&タイムレスポンス)を

こなしている。

 

しかし、これが休日になると、その集中力が欠ける。

「あー。どうでもいいや。後回ししよう。」ってなる。

その後回しにした「気分」が月曜に残っていると、ひどく後悔してしまう。

 

これは「やらなければいけないこと」をしていない。とばっかり思ってた。

 

けど、本当は「考えなければならないことを後回しにしていた」というのが本当の心地悪さ

だったんだな。と、ようやく。

ほんとうにようやく気付いた。

 

例えば。今日のレジの出来事で。

仕事が出来ない人を。

人に頼る事を。

(ここから具体的に書くけど、意味は無いです。分かりやすいだろうと思うから。)

 

生活保護者を。

失業者を。

精神的疾患の人を。

そして。

自分の考えと異なる人を。

 

こういった人を、厳しく攻撃する時代になったなと。

 

あんまり気にしない性格ではあったけど、ここまで騒然となると気になってきた。

 

たぶん「自己承認欲求の裏返し?」で、こういった行動が増えてるんだろうなと。

自分の心の中で満たされない不満を、弱者に向ける事によって、満足しているような。

 

この考えは、自分は全く持っていない。

やはり、自分を満足させるのであれば、自分が動くしか無い。

 

けどね。

 

今の現状を見ていると、とても「抑圧」された。

「閉塞」された空間で息を吸ってるような感じがあって、とてもツライなと。

 

だからここで自分の「総括」

 

「余所は余所。自分は自分。」この気持ちを持って「認識行動」するのが一番。

 

人に当たるのは容易い。

けど、自分がそればっかりで満足していたら、事細かくは書かないけど、いつかは「自己破綻」

してしまう。それは見えている。

 

いつも言うけど、他人様って「評価」はいらないんだ。

こうこうこうですよ。っていう声は「認識」で繋げていけばいい。「認める」だけ。

 

「なんだよwwwそんなのも出来ないのかよwww行動おかしかったら、頭もおかしいなwww」

 

なんていう、物凄い尖った太い剣で、心をえぐる様な人間は、無視しておけばいい。

 

「そうか。そこが出来ないんだな。OK。」

って、声にも出さず「お察し」で認識しておけばいい。

 

後は、そこを察した点は、しっかりと頭に入れておいて、相手と接していく。

けど、察する=認識だけで本当にいい。それが、こちらの行動だと思う。

 

今日の「総括」はここ。

レジのお兄さんに。

「今日オレは、お兄さんを見て、こういった考えを整理できたよ。ありがとう。」って、

心の中で思っていて、次にこのお兄さんに出会って、レジ済ませたらさ、

「ぁざっす」くらい言ってあげればいい。

 

いつも行くパン屋にて。

パン買った後に、店外の広場でコーヒーを飲めるスペースがあって。

今はコロナ対応だから、テーブルに3つあった椅子も1つしか無い。

テーブルは8つほどある広場なんだけど、2人座ってた。

 

1人お姉さんが、パンを食しつつ座ってたけど、自分が来たら、

軽い笑顔で会釈してくれた。

 

小さい行動だけど、気分がいい。とても心地良い気分。

大した行動じゃないけど、これくらいの心の空間があって、その中で人と接していく行動。

さっき書いた話の対称になるけど、こういう感覚=行動でいいんだと思った。

 

ひさびさに書いたブログ。これもまた総括しながら続けていけばと思う。

これも承認欲求の「健康的な出しどころ」だと思って。

 

ゆうさん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ数年。生活をしながら思うのは、

「男が男に惚れるような存在の人に出会ってない。」

 

本来なら、異性同士で引き合うものだろうけど、

男性の生き様に惹かれてしまう事が無くなってしまった。

 

若い時は、映画や小説を読んでは、男性の行動や考えに

共感を持ち、そしてその人を対象にして、そういう生き方を

してみたいと思い、

仕事の中で、その人の背中から行き方を学び、こういう人に

なりたいと思っていた時期がありました。

 

そういう経験の結果が、自分を作り上げて来たとは思います。

ただ、それはこの年齢になっても続いていくものだと思って

いました。

 

自分が目指すべき生き方。それを人から学ぶ。

そんな若い時の感情が無くなっていたのかと思うと、

少し寂しい気持ちになります。

 

自分が目標としていた年齢から、

目標にされる人間に変わっていく。

自分の背中を見せて、相手に感化させる。

そんな事を考えて行動していくうちに、自分の目標とすべき

人を見失っていたのかもしれません。

 

男性と女性の「惚れる」という言葉には、色んな形があります。

 

恋愛であったり、友人であったり、先輩や後輩であったり。

その形は違えども、男性と女性が引き合うものは、

その都度変わっていくものです。

 

自分は男性・女性に関わらず、

「引き合うということは、互いに自身の良さを成長させる」

大事な存在だと思っています。

 

ただ、この年齢になって、自分を見せていく感情が強くなり

すぎてしまって、相手を尊重する、相手から学んでいくという

行動が出来ていなかったのかもしれません。

 

もっと色んな人、色んな形で学び取るもの=惚れることは、

今でも出来るんだなと思うと、とても素敵な事で、素敵な時間を

過ごしていけるんだなと、気付かされました。

 

自分が男性に対して(女性でもそうだと思いますが、)

見せていくものは、力強さ、逆境を行動に変えていく知恵と

勇気だと思っています。

 

その形を違った角度から見せてくれる人。

そして、自分以上に力強さ、知恵と勇気を持つ人に、

これからも惹かれていきたい、惚れてみたいと思うのです。

 

その人と接点がつながれば。

互いに切磋琢磨できる=自身を成長させるエポックとして、

付き合っていければと思います。

 

現実的に(特に仕事に関しては。)

難しいとは思いますが、私生活の中で、もっと多くのことを

人から学び取らなければならないんだなと、思いました。

 

多くの人と出会い、そして自分が成長できる人と向き合う、

付き合っていく。

その人生はまだ未完成で、成長途中な自分です。

 

ゆうさん