お久しぶりです。悠くんです。
3か月ぶり?ずいぶん長いこと空いてしまいました。
にもかかわらず、なんか毎日20人くらいは見てくれてるのね。
なんでだろ、まぁともかく、見てくださってる方々、ありがとうございます。
これからはまめに更新します。。。たぶん、大丈夫なはず、うん。
それで、3か月ぶりの記事は、要するに僕の決意です。
この3か月、半分以上は夏休みでした。
その夏休みはホントに音楽ばっか聞いてました。
Liveには1本しか行けなかったけど、Live DVDも山ほど見たし、毎日、曲を50曲位、知らない曲を少なくとも20曲くらいは聞いてたのかな。
そのなかで、歌詞の力についてホントに考えさせられました。
今日はそれをまとめます。
っても走り書きみたいなもんで、説得力とかかけらもないのは申し訳ないです。
坂本九の「上を向いて歩こう」の詩を書いた永六輔はあの名曲に60年安保闘争を経験し大衆がいかに権力に非力かということを痛感して悲しんだその思いを込めた。
なのに中村八大がポップにし坂本九が歌ってしまった。
初めて聞いたとき永六輔は腸が煮えくり変えったという。「これはそんな曲じゃない。めちゃくちゃだ。もうこの曲はだめだ。」と思った。
しかし「上を向いて歩こう」は名曲となるまで売れた。
彼はどうしてかわからなかった。
たぶん歌というのは音に左右されるし、歌い手に左右される。歌うもののキャラクターとメロディが重要なんだろう。
昨今のアイドルや売れる歌手というのは華やかであるし、曲調もわかりやすく乗りやすい曲が多い。
それ自体を批判はしない。
表現は自由だ。
どんな歌にだって歌手にだって価値があると思うし尊敬できる。
だけど、もしかしたら、歌詞というのはわき役なのかもしれない。
今やメロディだってわき役かもしれないからエキストラかもしれない。
時々、アイドルやダンサーグループのパフォーマンスは華やかだから消音にしても楽しめるんじゃないかとさえ思うことがある。
曲と歌い手にそれだけ左右されてしまう歌詞にどれほどの力が残されているのか。
それでも僕は歌詞の力を信じている。
歌い手はいつか老け込んでしまうし、曲調も結局は流行だから古びてしまう。
だけど、言葉は時を超える。
もちろん、表現者のジレンマはある。
表現したいことが受け手に必ず伝わるなんていうのはうそだし、もしそう思っていたら傲慢だ。
言葉は様々なイメージを人に与える。
自分勝手なイメージを描かせる。ギャップはあるかもしれない。
だけど、受け手は確実になにかイメージを得る。
なぜなら
言葉が表現するのは感情だからだ。
感情は今も昔もみんなが持っていて、だからこそ感情を理解、あるいは想像できる。
それは唯一、時を超えて僕らが得られるもの。
共感できるもの。
あの日の誰かの気持ちと今日の僕らをつなぐもの。
たとえば「なごり雪」のせつなさ、悲しみが今でも受けるなんて普通ならおかしい。
携帯もTwitterもBlogもあるこの時代にあの歌詞の気持ちなんてわからない。
あのメロディが悲しみを引き出す魔法なのか。
もちろん、それもあるだろうが、それよりも力があるのは情景と感情を描ける歌詞、言葉じゃないか。
そして、僕らも別れのせつなさや悲しみを知っているからこそ、素直に感動することができるんじゃないか。
歌詞の力がどれほどのものか、僕にはわからない。
永六輔のうに言葉に込められた想いは歪んでしまうかもしれない。
だけど伝わることを願って、誰かへとつながることを願って今日のこの感情を言葉に表し歌詞に託していくこと。
それが歌詞の力だし、これこそ歌の本質でユメでそして未来なんじゃないか。
これが今の僕の結論です。
言葉足らずだし、説得力ないしでホントにどうしようもないけど、少なくとも、僕はそう信じてます。
誰がいいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか、そういうことじゃないんですよね。
信念ってそういうもの。
そして、僕はこれから、詩をこれから書いていこうと思います。
「信じる」って言葉を抱えて黙っていることではなく「行動する」ということ。
だから、歌詞を書きます。
時間はかかるかもしれないし、駄作ばっかりかもしれない。
でも自分の「今のこの感情」を、まずは描いていきたい。
だから、書きます。
それが決意です。
なんだか、久しぶりのBlogは攻撃的な感じになっちゃったな。
文章が荒い気がする。
次は気を付けます。
でわでわ、おやすみなさい。