4月1日 実父が旅立ちました。
長年の施設暮らし、認知症が進行し私の事はわからなくなっていました。コロナ渦になってからは面会禁止、おそらく2年は会っていなかった。
年末に母が体調をくずして入院、年始に父が入院、その付き添いが必要で悲しいかな入院の手続きで久しぶりに父と会うことができました。
施設にはいってると面会はなかなかできないけど入院してると会えるという、退院した母も何度もお見舞いに行ってたようです。
春休み、朝6時スマホに着信が。父危篤の知らせ。しかしその時私は前日からスキーに来ていて群馬の山の上でした。そのまま電車で帰るか考えている私に一緒に来ていた友人はすぐ帰ろう、送ってあげるからと言ってくれました。
本来ならこの日もスキーをする予定でしたが、チェックアウトし東京にトンボ帰り。友人も車をとぱしてくれ2時間後には病院に着いていました。
本来なら娘は入れなかったのですが、看護士さんのはからいで面会し、おじいちゃんと会うことができました。
それからが大変だった。大変すぎて記憶にないくらい。
いったん娘を連れ家に帰り春休み中のもろもろを準備、夜遅く病院へとんぼ返りし母と交代。付き添いで泊まり込みのつもりが深夜日付が変わるか変わらないか位に父は旅立ちました。
そらからは怒涛のように葬儀の手配、色々な手続き、父を送り、納骨まで。よく言うけど悲しむ暇がないというのはこのことなのかと思いました。
娘の事と自分の仕事も同時進行で、とにかく目の前のことを淡々とこなす日々。娘には冬休みに続き、春休みも我慢をさせてしまって可哀想でしたがよく頑張ってくれました。成長したなあ。介護と子育てが同時にくるのは大変、身をもって経験しました。
父を見送り思うこと。頑固で子育てに協力的ではないまさに昭和の親父てしたが、思い出すのは酒を飲みながら朗らかに笑ったり、お茶をいれてくれたり、子供の頃一緒に遊んだり、良い思い出ばかりでずるいよなあと思います。そして私の無二の味方が1人この世からいなくなってしまったのだな、という寂しい気持ちになりました。棺には葬儀に参列できなかった娘が書いた色紙や折り紙をいれました。くしくも私が大好きな桜が散る中で見送る事になりました。桜が散る度に父の事を思い出すのでしょうね。
父よ育てくれてありがとう、忘れないよ。
お疲れ様でした。やすらかに。