知美はいつの間にかベットの上で眠ってしまったようであった。しかし、眠っている知美の表情にはどこか疲れのようなものが浮かんでおり、それが安眠ではないことが窺えた。知美は時折、眉間に皺を寄せては小さく身動ぎして、その挙動には落ち着きがなくどこか苦しんでいるようにも見受けられる。それは観ている夢のせいであるのか?はたまた全く違う原因であるのか?それは現在 その最中にいるであろう知美自身にしか窺い知ることができないことであった…。



「……………」


そんな知美の傍らに無表情で立つ一つの人影があった。



「…お姉ちゃんは…いったい何をそんなに悩んでいるの?…ううん…今日のお姉ちゃんは…何だか変だった…何だか…何かに怯えているような雰囲気を感じたんだ…でも…やっぱり僕には何も言ってくれないんだよね…」

それはいつの間にか知美の部屋へと入ってきていた弟の健太であった。


「…でも…それはしょうがないことだよね…お姉ちゃん…。今の僕には…こんなことくらいしかできないんだから…」




健太は無表情のまま苦し気な知美の手をソッと握ると、知美の内にある何かをまるで吸い上げるように自身の意識を知美の手と己の手とに向けると、瞬く間に知美の表情からは苦し気な雰囲気が微塵も無くなり消えてしまったのであった…。


「…僕が全て消してあげるよお姉ちゃん…【痛み】なんてずっと抱えてちゃいけないものなんだよ…そんなものは僕のこの力で無くさなくちゃ…僕にはお姉ちゃんのような【痛み】を知らないし…感じられないけど…いずれ何処かで僕は【真実の痛み】ってものに出逢えるのかな?この世界の全ての【痛み】を消し去った後にでも…?」


既に知美の表情や身体からは苦しさや窮屈さのような緊張が解けて安らかな寝息が聞こえ始めていた。健太はそんな姉の姿に満足そうに頷くと、静かに知美の部屋から出ていったのであった…。




「……………」


翌朝、知美は目覚めると天井の一点を無言のままジッと見つめたまま、自分の状況を把握するために寝惚けた頭を総動員させて考えていた。


「…なんだ…けっきょく寝ちゃったんだ…私…」


しかし、その思考時間は僅か二秒ほどしか掛からずに呆気なくその答えは知美の顔を照らしており、知美はその照らされている眩しい光に思わず目を細めてベットから起き上がった。

「ん~…はぁ~…」

知美はベットから起き上がった後に両手を天井へと伸ばすようにして背伸びをし、口から大きく息を吸って吐き出し、深呼吸をする。


「……また…あの時の夢……」


そう呟いた知美の表情には、嫌悪感で満たされていた。思い出したくもない出来事を繰り返し繰り返し夢という形で観てしまう。その都度、その嫌な出来事を再認識するように思い出してしまうことの理不尽さに嫌気がさす知美であった。世の中の出来事の大半は無自覚で起こっている。中学生である知美には、世の中の不条理なんて大層なものを知ることはまだないことだが、学校という一つの世界であるのならばそれは存在した…。それは女子という不条理の世の中が様々な負を生み出すからである…。女子は男子とは違う世界を持っている。それは考え方だったり、価値観だったり、個性的な世界だったり、男と女の違いくらいに真逆であって、似て非なるものであったりする。それは時に様々な軋轢を生み、様々な要因と原因を生み、その結果、その軋轢は軋みを上げてひび割れ、粉々となって深い澱となっていく…。それはほんの些細な出来事であったり、僅かな擦れ違いであったり、思い違いや勘違い…幾多の誤解の中で、見ていたものが視えなくなって、調和は乱れて儚い泡沫のように消えて無くなっていってしまう。そして、友情ほど脆いものはないことを知ることになるの
だ。親友という強固な絆は些細な切っ掛けで意図も容易く無くなってしまうことをその時になって初めて知ることになるのである。


「……………」


知美は何かを思い出しているのか?奥歯を噛み締めて身体を小刻みに震わせていた。


「…私のせいじゃない!!私には関係無い!!私は何もしていない!!」



不条理や理不尽は、何も世の中だけにあるものじゃない。自身の身近に寄り添うように存在する【負】であるもの…見に覚えの無いもので攻撃され、何者かの策略に陥れられる…。そこには何の真実も存在せず、虚飾に彩られた嘘の有象無象が在るのみで、己の真実などは多数の中では無いものと同じなのだ。不条理や理不尽を撒き散らし、押し付ける者にとっては対象を己の嘘によって塗り固めることこそが目的であって追い込むことこそに意味があるのである…。


「………………」


知美はギリギリと音が聞こえてきそうなほどに噛み締めていた口をゆっくりと開けて小さく息を吐いた。いつもの知美であるのなら、この後に急激な吐き気に襲われるのだが、何故だか?それは起こらなかった。それを見越して奥歯を噛み締める力を強めていた知美だったが、知美の内に渦巻いている様々な痛みの原因とも言える因子が若干だがいつもより緩和されているような気がしていた。気のせいとも思えたが、あの夢の後には決まって激しい激情とその反動から来る様々な心の痛みによって、知美はいつも自分自身を制御することができずに自分自身に押し潰されてしまうのであった…。



「……………」

知美は自身の左胸に手を添えて、そこにあるはずのものが無くなっていることの違和感に気がついた。それは知美にとっては思い出したくもない【痛み】であるものであった。繰り返し観続ける悪夢のような過去の出来事は忘れたいのに忘れることができない知美にとっての【負】であって、知美自身が絶対果実から得た特殊な能力の源泉とも言える始まりの出来事でもあった…。


「人間の敵は人間って…最初にそう言った人は本当にすごいよ…だって…その言葉が何よりも真実を訴えているじゃない…人間を苛めるのも人間…人間を殺すのも人間…人間に害悪を与えるのも人間…人間を傷つけるのも人間…私に嫌な出来事を植え付けていくのも人間…だから…早く消しちゃわなきゃ…この世界には負の感情や思いなんて必要無いんだよ…そんな無意味なものに振り回されているからいつまでたっても苛めや自殺や殺人がこの世の中からは無くならないのよ…私だって…もう…」



知美はその先に続く言葉を最後まで言わなかった。だが、その表情は明らかに沈んでおり、知美は自身の内から消えてしまった【痛み】の代わりに不安そうな表情を浮かべてその場にうずくまりガタガタとその身体を震わせていたのであった…。




「…ただいま…」


知美は一瞬だけ躊躇した後、自宅の玄関扉を開いて家の中へと入り、誰にも届かないようなか細い声でそう言うと、早足に自分の部屋へと向かっていった。知美の家は二階建ての一軒家で、知美の部屋は二階にある。二階には知美の部屋以外に、弟の健太の部屋と両親の寝室があり、知美の部屋はその二つの部屋に挟まれるような形にあった。
隣同士ならばいくら静かに帰ったとしても既に帰宅しているであろう弟の健太には分かってしまうことが、知美には少し窮屈に感じてしまうことがある。弟の健太は幼少の頃より全く【痛み】を感じることができない身体になってしまっていた。痛みを感じることができないと言うことは、心の痛みも肉体的な痛みも両方共に感じられない身体であると言うことだった。それは健太自身が自分で言っていただけなので、知美自身にはそれが本当なのか?嘘なのか?どちらも判断ができないでいる。本人が痛みを感じないと言っているのだから、そうなんだと知美は思うしかない。知美の身体は健太の身体ではないのだ。痛みを感じないと言うことがどう言うことであるのか?など、それを体験した者にしか理解することはできないのである。 両親はそんな健太を過保護すぎるくらいに溺愛しており、知美は逆に両親からは見放されていて、丁度 思春期真っ盛りである知美にはそれがとても有り難いと感じている。両親の小言や変な干渉が無い今の環境は、知美には居心地が良かったからだった。今の知美には思春期という以外に、別の理由もあるからであった…。それはあの不
思議な果実から得た、特殊な能力という普通には理解できないような事柄などではなく、一般的な中学生としての意味合いでいう所の問題が一番大きかった…。一般的な家庭の親子ならば、親は子供に近況を訊ねたり、様々な干渉が存在していると思われる。それは男女関係無く繰り広げられる親子の営みなのであろうが…思春期真っ盛りの男女にとってはそうは必ずしもならないのであった…。親は子供が気になって心配で色々と聞いてしまうものなのだそうだが…そんな親の親切心が逆に煩わしく疎ましく、とても迷惑に感じてしまう年頃なのが、現在の知美の年齢なのであった。 そして親の干渉が大きければ大きいほどに、反抗心が更に増していってしまい頭と心の奥深くでは、そんな親の気持ちを理解してはいてもついつい反発してしまい気持ちとは逆の行動を取ってしまうのだった。しかし、幸いなことに、今の知美には両親の干渉があまり無く、聞かれたくないことを聞かれずに済んでいる。 それが知美には何よりも精神の安定に繋がっており、余計なストレスを受けずに済んでいるのであった。
しかし、弟の健太にはそう言うわけにもいかない。親とは違い姉弟である知美と健太には、隔てる壁が存在しないのだった。知美がいくら思春期真っ盛りの反抗期であったとしても、不思議な果実から特殊な能力を得てしまったとしても、不可思議な出来事に遭遇してしまったとしても、知美自身に深い傷が今もずっと残り続けていたとしても…健太には何も関係が無いことなのである。それは全て知美自身の問題であり、そうだからと言って健太の干渉を拒む理由にはならないのである。


「お姉ちゃん?帰ってきてるの?」


「……………」



「お姉ちゃん?部屋に入ってもいい?」


「………はぁ~…」


しかし、今日だけはそう言うわけにもいかなかった。


「ごめんね健太…今日は色々とあって何だか疲れちゃって…ちょっと寝かせてもらいたいの…」



「…学校で何かあったの?」


「ううん…友達の相談に乗っていただけよ …それでちょっと疲れちゃってね」


「…………」


「ごめんね健太」


ドアの前で無言で佇む弟の姿を想像して知美は少しだけ心が痛んだが、今日だけは一人にしてもらいたかったのであった。学校での不可思議な出来事とフローラ・アイネスという奇妙な外国人女性との遭遇…そして、フローラ・アイネスという外国人女性がまるで自らの元に呼び寄せるかのように動物達を音の鳴らないオカリナのような笛で操るようにしていたこと…。知美にはそう感じられたのだが実際は全く違うのかもしれない?フローラが言うようにあの動物達は彼女の友達で、一緒に過ごしているペット達…と言うことだってあるのかもしれない。だが、あれだけの数の動物達を飼うというのは現実的に考えればちょっと無理があるように感じる…。決して不可能とまでは言えないが、あれだけの数の動物…しかも一般的なペットという枠を越えてしまっている動物もフローラの周りには存在していた…。そして、もし?あれがほんの一部の動物達であったのだとしたら?いったいどれほどの数の動物達がフローラの傍にはいるのだろうか?知美には全く想像ができないのであった。あの動物達はいったい何なのだろうか?フローラ・アイネスという外国人女性はいったい何者なのだ
ろうか?まだ中学生である知美には何もかもが解らないことだらけなのであった…。
学校の教室で知美の傍へと飛んできた一匹の鴉…あれもフロ ーラの友達というものだったのだろうか?あの鴉は知美のことをずっと観察していたように思える。窓の外の電信柱の上で知美の何かをずっと視ていた…そんな気さえもする…。もし?そうだったと仮定するとしたら?知美は言い様のない不気味さをフローラ・アイネスという外国人女性とあの一匹の鴉に感じずにはいられなかったのであった…。







夕暮れ時の教室に、机の上に頬杖をついて窓の外の景色をぼんやりと見つめる一人の少女がいる。既に一日の修業過程を終え、部活動に励む者達の姿も校庭には見かけられない…そんな時間帯の教室であった。



「…なかなか思うようにはいかないな……」



誰もいない教室内で少女の独り言だけが聞こえてくる…。



「健太の発想はとても理想的なものだったわ…私達のこの能力を誰かに中継させて伝染させようだなんて私は思いつきもしなかった…。ただ私は、負のイメージさえみんなの中から消してしまえれば世界はもっと幸せになれるのにって考えていただけだった…。人間が人間を傷付ける感情が世界の幸せの邪魔をしているのよ…怒りや憎しみや哀しみや孤独と言ったものは全て人間が人間に与えている負の連鎖じゃない?私だって…そう…もうこれ以上…誰かに傷つけられるのなんて嫌なの…みんなが心の内に何かしらの負のイメージを持っているから…その蓄積された感情や想いが…動物や植物に向けられて…無関係なものまで巻き込んで…もう!嫌なのよ!痛いのも…苦しいのも…恐いのも…哀しいのも…みんなみんなこの世界から無くしてしまいたいのよ!いらない!そんな感情!この世界には必要ないものなのよ!」



誰もいない教室で、まるで世界中の人間にでも向けるような大声で自らの想いを吐露する少女の声は、皮肉にも静寂だけが聞いていた…。その少女の声は誰の耳にも届くことはなかったが、窓の外にある電信柱の電線の上でくつろぐように毛ずくろいをしている一匹の鴉は別であった。鴉はまるでそんな少女の声が聴こえているとでも言うかのように、留まり木代わりにしている電線の上でカーカーとしきりに鳴いているのであった…。


「…なによ…あの鴉……」


少女もその鴉の存在に気がついて、どこか憂鬱そうな表情を浮かべる。自分が鴉に笑われているような?馬鹿にされているような?そんな思いを感じたからであった…。
だが、その鴉はそんな少女の思いとは裏腹に留まり木代わりにしている電線の上から優雅な動作で飛び立つと、少女の居る教室の窓まで飛んできて、窓の縁に降り立ち、先ほどと同様にカーカーとしきりに鳴いているのであった…。


「な、なんなのよ…この鴉…」



少女はこの時になってようやくその鴉の存在を不気味に思い始めたのであった。先ほどはただ偶然に少女の声に反応して鳴いただけだと思っていたのだが、今のはそういうものではなかった。明らかに少女に興味を示した反応であった。ましてや自然界に生きている野生の鴉が人間の姿に何の警戒も無く近づいてくるようなことは本来ならば有り得ないことである。だが、少女と鴉との距離はニメートルほどの至近距離しかなく、その鴉には少女を警戒するどころか逃げようとする素振りすらも見られず、しきりに首を左右に揺らすように傾けて少女の姿をまるで観察でもするかのように見ているのであった…。


「……気味が悪い…」


少女は机の横に掛けてある学生鞄を素早く手に掴むとその鴉から逃げるように教室を出たのであった…。




下駄箱で上履きから靴に履き替え正門を出た少女は、そこで鴉と戯れるように佇む一人の女性と出会うのであった…。


「この子が平野 知美さんなのね?そう…」



「……………」




「あなたが平野 知美さん…で間違っていないかしら?」


女性が少女に対して平野 知美(ひらの・ともみ)なのか?と訊ねると数匹いる内の一匹の鴉がその女性に抗議するかのようにカーカーとしきにその女性に訴えかける。



「ふふ、ごめんなさい。別にあなたのことを疑っているわけじゃないの。ただ日本人は同じ名前も多いから確認のために聞いているだけなのよ」



「……………」


少女は自分の名前を呼ばれたことに一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに目の前の女性に警戒して、自らの能力を発動させていた。その女性が口にした平野 知美という名前は確かに少女の名前であったからだ。



「…だ、誰ですか?あなたは?」


鴉と戯れるように佇むその女性の異様な雰囲気に不気味なものを感じつつも、知美は何とか口から言葉を紡ぐことができた。



「ふふ…そう言えばまだ名前を言っていなかったわね。私の名前はフローラ…フローラ・アイネス…」




「…………」



フローラ・アイネスと名乗った女性は、名前の通りその容姿は日本人ではなかった。外国人のようだったが、中学三年生である知美には、もちろん外国人のしかも知美よりも幾分か年上のようであるその女性のような知り合いはいるはずもなかった…。



「知美さん?あなたは動物は好きかしら?」



「えっ?……」




「ふふ、この子がね♪私に教えてくれたのよ♪あなたが皆のことを想って言ってくれた嬉しい言葉をね♪ふふ♪」




「???」



知美はフローラの言葉に少しだけ首を傾げる。何か言っただろうか?と思考を巡らせてみるも知美には残念ながら何も思い浮かぶことはなかった。



「あの……ご用がないのなら…私はこれで…」




中学三年生とは思えないその少しだけ大人びた言葉にフローラはどこか感心したように微笑む。



「ふふ…初対面のあなたにこんな事を言うのは少しおかしいのかもしれないけれど?どうしてなのかしら…?あなたの傍に居ると不思議と荒んだ心が和らいでいくような…穏やかなものに包まれていくようなそんな気がしてくるの…この子達だってそう…いつもよりかはとても落ち着いて見えるわ。鴉は人間の習性をよく知っているから…知美さんには悪いのだけど…この子達はね…愚かで未熟な人間の手によって傷つけられたことのある可哀想な子達でね…人間という存在そのものをとても怒っているわ…鴉はとても賢い鳥よ…自分を傷つけた人間のことは執念深くいつまでも覚えている…でもね?それもやがては人間という一括りのものになっていってしまうのよ…。自分達を傷つけたのは一部の人間という考えは鴉には存在しないから…。自分達を傷つけたのは【人間】だと考えるのね…でもね?知美さん。自分達を傷つけた人間がこんなにも近くにいるというのに…今のこの子達は平静を保てているのよ?それはどうしてなのかしらね?」



するとフローラはどこから出したのか?オカリナのような形をした物体を右手に握っていて、それを自らの口元にあてがい、オカリナを吹くかのように口と手を動かし始めたのであった。しかし、そのオカリナからは一切の音が聴こえてくることはなく、フローラの息継ぐ音のみが知美の耳には僅かに聞こえてくるだけであった。



「……………」




フローラが音の出ないオカリナのようなものを吹き始めた時、知美の背筋から悪寒のような嫌な感覚が沸き起こった。



(な、何なのよこの人…)



知美はあの不思議な果実から手にした能力…【負の消失】をさきほどからずっと発動させ続けていた…。知美の能力は負に類する根源的な部分を消失または忘却させてしまえる特殊な力であった。しかし、その特殊性ゆえにまだまだ知美自身が手探り状態のために、その能力の方向性を決めあぐねている…。だから、今の【負の消失】は不完全で中途半端な能力となってしまっているのである…。そのために、数日前のように偽りの消失や忘却が引き起こされてしまい完全には忘れてはいない状態で何か一つの負の感情だけが消失したような?忘却してしまったような?状態になってしまうのであった…。それは実に質の悪い悪戯のように…本人には負に類する感情は無くなってはいても、それが負の感情だと自覚することすらできなくなっているので、善意と悪意との境界が無くなってしまうのだった。善意が逆に悪意となって不気味なまでにちくはぐとした奇妙なものに変わっていってしまう…。数日前に上村 志輝が通勤途中の電車内で遭遇したおかしな空間のような状態がそれである。誰も怒らない…注意しない…悪いことを許してしまう…どうしてそれが悪いことであるのか
?という根源が消失または忘却しているために、出来事に対しての負のイメージを抱かなくなるからである。…だから、上村 志輝が電車内で携帯電話を使用していても、平野 知美の【負の消失】の影響を受けた者達はその行為を寛容なまでに受け入れられてしまえるのである。




「さ、さっきから…な、何をしているんですか?……」



「……………」



音の奏でられないオカリナのようなものを今もずっと吹き続けているフローラの姿に、知美の中の警笛は今もずっと鳴り続けている…。
すると、どこからやって来たのか?辺りから不意に犬と猫がフローラの周りに集まって来たのであった…そして犬や猫に続いて鼬(いたち)のような小動物や狸…九官鳥のような鳥の姿も…



「知美さん…あなたに紹介するわ。…私の大事なお友達を…」




「…………」



フローラの周りには、今では何十匹…何十羽…という生き物たちが集って来ていた。知美はそのあまりにも非現実的な光景に言葉を失ってしまう。


「やっぱり…この子達も知美さんを前にしていると、とても穏やかな表情になれるのね?どうしてなのかしら?人間に捨てられて…虐められて…あんなにも辛くて悲しい体験をしてきたはずなのに?
知美さんにはそんな表情ができるのね?人間はみんなを傷つけるだけの存在になってしまったというのに…ふふ…知美さんは違うというのかしら?」


「…………」



「ふふ…そんなに怯えた表情をしないで。今のこの子達はあなたに敵意を向けるようなことはないわ。ううん…違うかしら?知美さんには向けられない…ううん…それも何だか違うような気がするわ…この子達の本能の内から何かが消えてしまっている?…という感じかしら?先ほどまではあんなにも人間に対して怒っていたというのに…捨てられて…虐められて…その寂しさや悲しみがこの子達の孤独を広げていって…生きるための本能が憎しみとなって人間という恐怖の存在にその牙と爪を向けていく…身勝手な飼い主に…中途半端な優しさが…気まぐれな優しさが…熱して冷める愛情が…飼い主の無責任な心が…動物達を深く深く傷つけていくの…。酷いと思わないかしら?親元を引き離されて、人間の都合で売り物にされて、引き取られた場所がとても酷いところだったとしたら?そして!もう飼えないからと言って捨てられてしまったとしたら!……人間はいつまでたっても理解しようと動物達に心を向けてはくれないわ…理解している気になって…無責任な気持ちのままに動物達の心と気持ちを視てしまっているのよ…ねぇ?知美さん?あなたなら理解してくれるでしょ?こんな
にもこの子達が優しい表情をあなたに向けていられるのだから?」

平野 知美の日常は、絶対果実という不思議な果実との出会いによって大きく変わり始め、己自身の深い心の傷によって自身の願望と願いは叶えられた…。そして、その不思議な果実から手に入れた特殊な能力は未だに未知の領域をたゆたっている…。だが、このフローラ・アイネスとのどこか恐ろしくも奇妙な遭遇は、今後の平野 知美に大きな何かを与える切っ掛けとなる出来事になるのであった…。