この世界には人の運命をつかさどる何らかの超越的な 「律」 神の手が存在するのだろうか 

少なくとも 

人は自分の意思さえ自由には出来ない

人はなぜ子供の頃の記憶を貴く思うのだろうか。
 

それは子供の頃は自分の内側の世界しか存在していなく、その外側の世界など気にもしていなかったからであろう。

 

自分らしく生きることとはどのようなことであろうか。それは外界の存在に目を瞑り、自分の内側の世界にのみ生きるということだと思っている。

そうすれば人は少なくとも、外界の存在に振り回されることが無い。自分の世界でのみ生きることができたのならそれは永久的な幸せだ。

しかし私にはそれができなかったのである。

なぜか。少年時代に遡る。

 

小学生の頃は自分の内側の世界(外界と対比するため、今後内界と呼ぶこととする)で生きていた。とても幸せであり、人々と良好な関係を築けていた。しかし中学生になると、とたんにそれが出来なくなる。おっと、こんな展開、聞き飽きた?きっとこのパターンを経験した人は結構多いのでは?この心理の変化はなぜ起こるのだろう?

それは、この手のパターンを経験した人は、内界だけではもの足りなく、外界に手を伸ばそうとした愚かな人間であるからである。

人間とは欲深な生き物で、内界で満足していれば良いものの、少しばかり賢くなったくらいで、今度は自分の外側という膨大な海の中に手を伸ばそうとする。

 

自分の外側の世界とはなにか。

それは地球上の他の人間の内界であり、この世の真理であり、である。これら全てをまとめたものこそが外界である。途方も無く広い、まさにディラックの海のような領域に足を踏み入れたがるのが中学生時代だ。

中二病とかいうのもこの類のものであろう。

このように、外界を求めるようになる心理現象を私はヨルムンガンド現象と呼んでいる。(大陸と海を飲み干したが、だけはどうすることもできなかった蛇ということから)

 

ではそのような類の愚かな人間が高校生になるとどうなるのか。

それは負傷した調査兵団さながら、外界を諦めて内界へとトボトボ帰っていくだけである。数多くの傷跡を残したまま。

しかし私はどうしても内界に戻れなかった。たとえ友を失おうとも、青春を犠牲にしようとも、そんな犠牲さえ外界の夢の中では貴いものとしていた。

外界を諦めることがどうしてもできなかったのである。そこに必ずなにかがあると信じていたのである。

そう、私はとても信仰深いのだ。サンタさんを小学五年生まで信じていたくらいに。

というか、可能性に目を瞑ることを極度に嫌がっていたのである。

それは甘えであろうか。

否、傲慢であろう。

自分の内界で満足していれればそれでよかったのである。身の丈にあっていない外界を手にしようなどとは傲慢以外の何物でもない。

では犠牲にしてきた数多くのものも無意味だったのか?

 

 

いや違う!!

 

その失ったものたちに意味を与えるのは我々だ!

大切な友を!!送るはずだった青春を!!誰よりも想うことができるのは!!

それを犠牲にしてきた我々だ!!

 

…という詐欺師のような体の良い方便はひとまず置いておくこととし…

 

真面目な話、内界に戻るにはどうしたらよいのやら…

既に鷹の団の皆さんには …げる してしまったことですし…トホホ…