いやー残念ながら我がオレンジ軍団は負けちまいました。
でも素晴らしい戦いでしたね。感動しました。 見てませんけど。
もうすぐテストですけど今のやる気はMAXゼロです。
現実逃避するためにここで俺の「自分」についての考えでもまとめておきます。
ちなみに俺は神様を信じていません。もし神様がいるとしたら自分だと思ってますんで。
まず、人はいつ死ぬと思いますか?
そう。その亡くなった人を知っている人全員がその人の記憶をなくしたときに初めてその人は死ぬのです。
って葬式ではよく言われますね。不謹慎ですけど。
ですがこの言葉は「存在」という観点からは非常に的を射ていると思います。
しかしながら科学的に生物と無生物を分ける決定的な違いは、自己を複製できるか否か、らしいっすね。
我々が考える死人は生き返り、自分の子孫を増やそうとはしませんよね。生き返った人は一人いるみたいですけど。彼のことはいったんおいといて。
我々の考える死。つまり生物→無生物の移行が死だという、我々が直感的に死と感じるものは概ね正しい「死」だといえます。
本当の意味での死はいつなのか。
もしデカルト先生の言う通り、「我思う故に我あり」の論理で行って、自分を認識できなくなったときが死だというのなら、先ほど述べた「生物→無生物が死」が正論となります。
なぜなら思考および記憶は脳という体の一部に依存しているからです。脳がないと思考なんてできませんから。
これは拳銃で頭をぶちぬけば容易に推察できます。しませんけど。
①ここで仮に自分を見てくれる観測者が存在するとします。
その観測者から見て、仮に自分が一般的にいう死んだ状態になったとします。
そこで誰かが、(神様でもいいけど) 自分を構成する粒子をひとつも違わず元の生きていた状態に直したとします。
そこで目を覚ました自分は本当に元の自分でしょうか。
これは一慨に元の自分だと言うことができません。
なぜか?
②もし仮に、脳細胞の思考回路および肉体が全く自分と同一の人間がつくられたとして、ある観測者がそのつくられた人間と本当の自分を眺めているとします。
二人は形的には同一ですが、実質的に違うものです。
もう少し分かりやすく言うと、目の前に二つの水素原子があるとします。質量数、物理的振る舞いは全く同一です。そこで俺がそのどちらかを極小のピンセットで持ち上げたとします。この時持ち上げられた水素原子と持ち上げられなかった水素原子は確かに同じ水素原子でも「別物」です。
もうおわかりの通り、①は時間的な違い。②は空間的な違い。
アインシュタインが証明した、この世界において時間と空間は一体とする結論がこの問題に解を与えてくれます。
つまり空間的な違いも時間的な違いも等価である。
すなわち①と②は同じ問題と言えるのです。
よってここで一つの仮説を手に入れることができます。それは昨日の自分と今日の自分は、全く別の人間だたいう仮説です。
普通ひとは、時間を貫いて存在する普遍的な「自分」が存在すると思っています。
しかしながら、先程述べたアインシュタインの時間と空間の等価性はこの思い込みを否定します。
昨日の自分は、目の前の何者かによって作られた、自分と全く同一の人間と同じように「別」の自分なのです。
この概念はすごく理解しがたいはずです。
だって子どものころの記憶だってあるし、昨日やり残した宿題が残っていたりしてるから、昨日の自分も今日の自分も同じ自分だって思うはずです。
ですが論理をたどるとこの考えは誤りだと分かります。
つまり結論!
我々は常に死んでいて常に生まれている!同一な自分は存在しない!
ちなみにこの結論はひたすら論理と科学のみを追求した結論であり、生命素子、いわゆる魂なるものは考慮していません。
だから可能性の話のほんの一部にすぎません。
他の可能性の話はまた今度書きます。
わぁーなんかやたらと思考実験して頭痛いです。
寝ますおやすみー。