11月だが、ザ・スミスについて80年代を振り返った矢先、2月に新譜をリリースするモリッシーに突然取材をすることになった。2年前『リングリーダー・オブ・ザ・トーメンターズ』が出たときも取材の話があったが、前日に日程が決まり翌日にローマに飛ぶ、なんていう不可能な要求がつき、結局実現しなかった。このお殿様的な態度といい、もう長い間彼には会っていないが、知人や関係者から聞く噂は、実のところネガティブなものばかりだった。
それでもモリッシーは、ファンにとっては神様のような存在であり、生きるカルト・ヒーローであり、ロック・アイコン(イコン)だ。80年代から彼が書き続けてきたスミスやソロ作品の音楽(歌詞とメロディー)には、この世界を受け入れない、しかしこの世界から受け入れられたい、矛盾と愛に飢えた青年(中年)の世界が結晶化されていて、今だ多くの人の心を捕える。本人が言うには、最近は若いファンが多いとか。本当か??
さて思えば再会は20年ぶりかも。取材の日、お昼時間に新作アルバム『イヤーズ・オブ・レフューザル』の視聴会があった。イギリスの媒体が中心だったが男性率が90%で、それも30代半ば以上、これにまず驚いた。モリッシーは誰よりも先に開場入りしていて、時間が来るとステージに上がって1分弱の挨拶をした。「新譜が完成しました、凄く誇りに思っています。気にいってもらえることを祈っています。ジャケットの子供は僕の息子です(嘘)」と言った内容の、手短さ。開場のサウンド・システムの質があまり良くなかったのが残念だったが、新作はドラムスとベースがうなり、モリッシーのボーカルが元気に鳴り響くパワフルなロック・アルバムに仕上がっている。
歌詞?愛に破れた男、孤独を受け入れる男、世の弱者に目を向ける男、そんな男モリッシーが怒り叫んでいる。多分にもれずファンが聞きたい歌詞の満載だ。来年で50歳になるにもかかわらず、心は今だに怒れる青年なのだ。数年前はローマに住んでいたが、今は家なしで世界各地(とはいえイギリスとアメリカが主)のホテルを転々として気まま(?)に生活しているという。たまにお忍びでマンチェスターにも帰っている。
彼の怒りの対象は幾つもあると思うが、その一つは、イギリスのラジオで自分の曲がかからないことだと言った。そしてヒットがないこと。もちろんその気持ちも理解できるが、80年代ならともかく、シングル・ヒットが21世紀の音楽シーンにどれくらい意味をもつのか?だれもが現在過去、多種多様のアーチストの楽曲をダウンロードする時代、ラジオがどれくらいの意味を持つのか?「いまさらそんなことに怒る必要ないのでは?」と反論してみたが。
新作には“ママ・レイ・ソフトリー・オン・ザ・リバーベッド”という曲がある。彼が母について歌ったというので一部の人は非常に強い興味を示し、この母が彼の母であると誤解した人もいた。実は借金とりに追われる貧困家庭を描いた曲であるらしく、“僕の母が他界したわけじゃないよ。実のところ母は元気すぎるくらい元気で、毎日サイクリングしているよ”と笑って話してくれた。モリッシーのお母さんだから、どう考えても70代後半か80代??パワフルなお母さんをお持ちですね。
時間が短かっただけに、聞きたいことは沢山あったが、聞けたことは少なかった。そうそうここで触れた映画『ディス・イズ・イングランド』のフィナーレに「プリーズ・プリーズ・プリーズ、レット・ミー・ゲット・ワット・アイ・ワント」のカヴァー・バージョンが挿入されていたことについて、凄く感激した様子だった。21世紀の彼の目がどこ向いていて、何を欲しているのか、実のところ探ることはできなかった。昔同様に現代美術を嫌い、多くのバンドを嫌い、携帯電話を嫌い、etc。頑固さゆえに、価値観を変えるのに異常に時間のかかる人なのだ。それでもいろいろ世界を旅して、昔よりは多文化を受け入れられるようになったと告白してくれたが、日本文化はそこには入っていないようだ。最後の来日は2002年。“日本は魚臭いし、加え捕鯨国だしね・・”、とモリッシーは言ったのだった。
(December 19th 2008, otonano blobにて掲載)
それでもモリッシーは、ファンにとっては神様のような存在であり、生きるカルト・ヒーローであり、ロック・アイコン(イコン)だ。80年代から彼が書き続けてきたスミスやソロ作品の音楽(歌詞とメロディー)には、この世界を受け入れない、しかしこの世界から受け入れられたい、矛盾と愛に飢えた青年(中年)の世界が結晶化されていて、今だ多くの人の心を捕える。本人が言うには、最近は若いファンが多いとか。本当か??
さて思えば再会は20年ぶりかも。取材の日、お昼時間に新作アルバム『イヤーズ・オブ・レフューザル』の視聴会があった。イギリスの媒体が中心だったが男性率が90%で、それも30代半ば以上、これにまず驚いた。モリッシーは誰よりも先に開場入りしていて、時間が来るとステージに上がって1分弱の挨拶をした。「新譜が完成しました、凄く誇りに思っています。気にいってもらえることを祈っています。ジャケットの子供は僕の息子です(嘘)」と言った内容の、手短さ。開場のサウンド・システムの質があまり良くなかったのが残念だったが、新作はドラムスとベースがうなり、モリッシーのボーカルが元気に鳴り響くパワフルなロック・アルバムに仕上がっている。
歌詞?愛に破れた男、孤独を受け入れる男、世の弱者に目を向ける男、そんな男モリッシーが怒り叫んでいる。多分にもれずファンが聞きたい歌詞の満載だ。来年で50歳になるにもかかわらず、心は今だに怒れる青年なのだ。数年前はローマに住んでいたが、今は家なしで世界各地(とはいえイギリスとアメリカが主)のホテルを転々として気まま(?)に生活しているという。たまにお忍びでマンチェスターにも帰っている。
彼の怒りの対象は幾つもあると思うが、その一つは、イギリスのラジオで自分の曲がかからないことだと言った。そしてヒットがないこと。もちろんその気持ちも理解できるが、80年代ならともかく、シングル・ヒットが21世紀の音楽シーンにどれくらい意味をもつのか?だれもが現在過去、多種多様のアーチストの楽曲をダウンロードする時代、ラジオがどれくらいの意味を持つのか?「いまさらそんなことに怒る必要ないのでは?」と反論してみたが。
新作には“ママ・レイ・ソフトリー・オン・ザ・リバーベッド”という曲がある。彼が母について歌ったというので一部の人は非常に強い興味を示し、この母が彼の母であると誤解した人もいた。実は借金とりに追われる貧困家庭を描いた曲であるらしく、“僕の母が他界したわけじゃないよ。実のところ母は元気すぎるくらい元気で、毎日サイクリングしているよ”と笑って話してくれた。モリッシーのお母さんだから、どう考えても70代後半か80代??パワフルなお母さんをお持ちですね。
時間が短かっただけに、聞きたいことは沢山あったが、聞けたことは少なかった。そうそうここで触れた映画『ディス・イズ・イングランド』のフィナーレに「プリーズ・プリーズ・プリーズ、レット・ミー・ゲット・ワット・アイ・ワント」のカヴァー・バージョンが挿入されていたことについて、凄く感激した様子だった。21世紀の彼の目がどこ向いていて、何を欲しているのか、実のところ探ることはできなかった。昔同様に現代美術を嫌い、多くのバンドを嫌い、携帯電話を嫌い、etc。頑固さゆえに、価値観を変えるのに異常に時間のかかる人なのだ。それでもいろいろ世界を旅して、昔よりは多文化を受け入れられるようになったと告白してくれたが、日本文化はそこには入っていないようだ。最後の来日は2002年。“日本は魚臭いし、加え捕鯨国だしね・・”、とモリッシーは言ったのだった。
(December 19th 2008, otonano blobにて掲載)
久しぶりにイアン・ブラウンに取材した。イアン・ブラウンと言えばストーン・ローゼズのボーカリスト。ローゼズ時代ほどではないが、今だに熱狂的なファンに支持され、まさにカリスマという形容詞がぴったりの存在感ある男だ。多くの伝説のバンドが再結成されるなか、ローゼズの再結成はないだろう。イアンと幼馴染みでギタリストのジョン・スクワイアーの友情が復活することを祈りたいものの、それでも美しいローゼズの伝説が破壊されてほしくない。と思うのは私のわがままな願望だろうか?

バギーなジョー・ブロッグスのジーンズによれよれ帽子をふかくかぶり、カジュアルなルースなファッションで知られるローゼズは、ザ・スミスと並び80年代から90年代初期のマンチェスターが生み出した2大バンドと言えるだろう。シングル「アイ・ワント・ビー・アドーアド」はロックの歴史に残る名曲だし、この曲が収められた彼らのデビュー・アルバムはこれまたロックの歴史に残る名作アルバムだ。イアンの力みのないリラックスしたヴォーカル・スタイル、ジョン・スクワイアーの黄金のブリティッシュ・ロックから影響をうけたブルース色の強いギター・プレイ、それでいてレゲエやファンクのリズムを取り入れた心地よいリズムが、耳と体に訴えかけるストーン・ローゼズ・サウンドは稀に見る個性ど独創性に富んでいる。それが今日にまで語り継がれる伝説のバンドとしての人気の秘密の一つだと思う。
また60年代後半の学生運動や、それ以前の文化運動、とくにシチュエーショニストなど、巾の広い思想運動への強い関心や、ジャクソン・ポロックに触発された(ジョンが絵を描く)ジャケットやポスターなどの使用、多くの面でも彼らは好奇心をそそらされる存在だった。またインディー主義にこだわり、引く手あまただったメジャー・レコード会社からのオファーを蹴り、長い交渉の末シルバーストーンという新レーべルと契約した。
たった2枚のアルバムを残して解散した彼らの12年間のキャリアは、裁判やら、仲たがいやら、誤解やら、様々な事件で塗り込められている。今思えばそれは彼らが理想主義者であったと同時に、若さゆえに避けられない過ちを犯したからだと思う。そんな歴史は決して塗り替えられないし、それだからこそ美しかった。あんな偉大なバンドが10年でたった2枚のアルバムしか出していない、というのはある意味で悲劇でさえある。
短いストーン・ローゼズの歴史の中で、最大のイベントとされるのは、1990年5月27日にリバプール郊外のスパイク・アイランドで行なわれた野外コンサートだ。これに私も足を運んだ。マンチェスターのホテルに滞在し、そこから貸切バスで現地に向かった。島とは名のつくものの、そこはリバプール湾に突き出た半島のようなところで、その殺風景で何もない灰色の敷地は、あの「夢の島」を連想させた。それもそのはず、なんとここは昔はトキシック・ウエイストを扱っていた工場跡地で、70年代に森林に復元されたという場所だ。残念ながらそのせい?でないだろうが、サウンドに問題があり気候も小雨のふる曇りで、素晴らしいライブとはいえなかった。ただ1箇所に2万7千人ものローゼズ・ファンが介した、それは多いに意義のあるイベントだったと言える。
ハシエンダといえば、ファクトリー・レコードとニュー・オーダーが82年5月、マンチェスターにオープンしたクラブだ。80年代後半、レイブ・カルチャーの発信地として、マッドチェスター・ブームの震源地として世界的に有名なクラブとして名をはせることになるが、オープン当時は閑古鳥が鳴いていた。毎日ガラガラで、当時を振り返る人は冗談でファクトリー・レーベルのアーチストの会員制クラブみたいな感じだったと言う。そんな私もオープンして間もないハシエンダに何度か足を運んだことがある。その頃のマンチェスターの町中は、100年ほど前に立てられた寂れたレンガ作りのビクトリア朝の空きビルが多く、ハシエンダも多分にもれずそんなビルの一角にあった。中にはいると、お客さんは数人のみ!サータン・レシオのメンバーやDJマイク・ピカリングや、トニー・ウイルソンなどの顔を見受けたが、誰もいないダンスフロアーに音楽が鳴り響いていたのが記憶にある。
当時不況で荒廃していた街中とは対照的に、ハシエンダはピーター・サビルとベン・ケリーのデザインによる、裸コンクリートと黄色と黒の工事現場のようなストライプを前面的にとりいれたモダンでミニマルなインダストリアル・デザインの内装が多いに話題をよんだ。「ブルー・マンディー」の世界的な大ヒットで海外の大都市を訪れるようになったニュー・オーダーは地元マンチェスターに、自分たちが行きたいようなクラブがないことを不満に思い、それならば自分たちでクラブをオープンしようじゃないか、という動機からハシエンダをオープンした。「ブルー・マンディー」のヒットでそんな資金があったようだ。しかし数年後には税金所から巨額な請求が来て、それを支払うためにここでライブをやらなければならなかった、なんてオチもつくから、いかにも彼ららしい。おまけに入場料も安く、ドリンクも近所のパブより安い!というから赤字やかさみ、初期数年間はずっと赤字運営が続いた。しかしマッドチェスター・ブームが起こると、会場前から長蛇の列ができて入場も困難なほどの大人気クラブとなり潤ったようだ。
さてそれ以前、まだ閑古鳥が鳴いていた時代、当時大人気のチャンネル4テレビの人気音楽番組『TUBE』のライブ中継などもよくやっていた。そしてなんとデビュー当時のマドンナが、ここで「ライク・ア・ヴァージン」を披露した。これはマドンナにとってのイギリス・デビューで勿論生中継だった。こんなメジャー・タレントがハシエンダに出演したのは最初で最後だろう。ただし当時のマドンナは新人でしかなかったが・・。
そしてもうひとつ、マッドチェスター前のハシエンダの歴史に残るライブがあるとしたらザ・スミスの全英チャート・イン、勝利のマンチェスター帰還ハシエンダ・ライブだろう。1983年1月16日、シングル「ワット・ザ・ディフェレンス・ダズ・イット・メイク?」が全英チャート・インした日、彼らはハシエンダでライブを行なうことになっていた。それは全英チャート最高位初登場になるのを予想していなかった彼らだ。ところが思いがけないシングルの成功に、BBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス』(当時この番組はイギリスのアーチストにとって最も重要な音楽番組とされていた)の出演が突然決まり、それがハシエンダのライブの日にぶつかったのだ。それで彼らは午後ロンドンのBBCで『トップ・オブ・ザ・ポップス』の収録を終えると、ユーストン駅から電車でマンチェスターへ移動!1日2回の駆け足ライブを行った。電車で駆けつけた、というのがいかにも80年代ぽくていい。でも車だったら渋滞して1日2回の駆け足ライブは無理だったと思うが・・。
たまたまその日、私はハシエンダにいた。楽屋には黄色いラッパ水仙の箱が幾つも化粧台やらテーブルやらに山積みにされていたのを覚えている。その箱をぼんやりと眺めながら、ザ・スミスがロンドンからやってくるのを待っていた。いよいよ4人がハシエンダに到着というニュースが入ると、私はステージの裾で彼らを待ち受けていた。時間ぎりぎりだったせいで、彼らは扉をあけ到着するやいなやステージに直行して演奏を開始した。ファンの歓声に迎えられて、嬉しそうな入場してきた彼らの顔が今でも忘れられない。勿論ライブは最高峰にまだ達していない右肩上がりのザ・スミスの勢いを感じさせる熱いものだったことは言うまでもない。今となっては閑古鳥が鳴いていた時代のハシエンダの懐かしい(美しい?)思い出だ。
それから3年後86年に入るとDJのマイク・ピカリングが、シカゴのハウス・ミュージックをかけるようになり、ハシエンダは英国北部のクラバーの人気を集め、それが次第に拡大、アシッド・ハウス・シーン、レイブ・シーンの中心となっていった。イギリス北部には昔からノーザン・ソウル・シーンとよばれる黒人音楽をかけるダンス・クラブが大衆娯楽として人気を得ていたが、そんな土壌がこの背景にあった。また同時期にハッピー・マンディズやマンチェスター出身のストーン・ローゼズが世界的な人気を確立するとマンチェスターのロック・レイブ・シーンは“マッドチェスター”という名のもとに全盛期を迎える。そしてその中心地といてハシエンダも最盛期を迎えることになるのだ。その人気たるや凄まじく、なんとニュー・オーダーのドラマーのスティーブン・モリスは、彼の顔を知らないドアマンのせいで、ハシエンダに入るのに入場料を払わされた!!という、笑えないようなエピソードも・・・。「なんで自分のクラブに入るのに入場料を払わされるんだ!!」と後で怒っていた。
当時不況で荒廃していた街中とは対照的に、ハシエンダはピーター・サビルとベン・ケリーのデザインによる、裸コンクリートと黄色と黒の工事現場のようなストライプを前面的にとりいれたモダンでミニマルなインダストリアル・デザインの内装が多いに話題をよんだ。「ブルー・マンディー」の世界的な大ヒットで海外の大都市を訪れるようになったニュー・オーダーは地元マンチェスターに、自分たちが行きたいようなクラブがないことを不満に思い、それならば自分たちでクラブをオープンしようじゃないか、という動機からハシエンダをオープンした。「ブルー・マンディー」のヒットでそんな資金があったようだ。しかし数年後には税金所から巨額な請求が来て、それを支払うためにここでライブをやらなければならなかった、なんてオチもつくから、いかにも彼ららしい。おまけに入場料も安く、ドリンクも近所のパブより安い!というから赤字やかさみ、初期数年間はずっと赤字運営が続いた。しかしマッドチェスター・ブームが起こると、会場前から長蛇の列ができて入場も困難なほどの大人気クラブとなり潤ったようだ。
さてそれ以前、まだ閑古鳥が鳴いていた時代、当時大人気のチャンネル4テレビの人気音楽番組『TUBE』のライブ中継などもよくやっていた。そしてなんとデビュー当時のマドンナが、ここで「ライク・ア・ヴァージン」を披露した。これはマドンナにとってのイギリス・デビューで勿論生中継だった。こんなメジャー・タレントがハシエンダに出演したのは最初で最後だろう。ただし当時のマドンナは新人でしかなかったが・・。
そしてもうひとつ、マッドチェスター前のハシエンダの歴史に残るライブがあるとしたらザ・スミスの全英チャート・イン、勝利のマンチェスター帰還ハシエンダ・ライブだろう。1983年1月16日、シングル「ワット・ザ・ディフェレンス・ダズ・イット・メイク?」が全英チャート・インした日、彼らはハシエンダでライブを行なうことになっていた。それは全英チャート最高位初登場になるのを予想していなかった彼らだ。ところが思いがけないシングルの成功に、BBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス』(当時この番組はイギリスのアーチストにとって最も重要な音楽番組とされていた)の出演が突然決まり、それがハシエンダのライブの日にぶつかったのだ。それで彼らは午後ロンドンのBBCで『トップ・オブ・ザ・ポップス』の収録を終えると、ユーストン駅から電車でマンチェスターへ移動!1日2回の駆け足ライブを行った。電車で駆けつけた、というのがいかにも80年代ぽくていい。でも車だったら渋滞して1日2回の駆け足ライブは無理だったと思うが・・。
たまたまその日、私はハシエンダにいた。楽屋には黄色いラッパ水仙の箱が幾つも化粧台やらテーブルやらに山積みにされていたのを覚えている。その箱をぼんやりと眺めながら、ザ・スミスがロンドンからやってくるのを待っていた。いよいよ4人がハシエンダに到着というニュースが入ると、私はステージの裾で彼らを待ち受けていた。時間ぎりぎりだったせいで、彼らは扉をあけ到着するやいなやステージに直行して演奏を開始した。ファンの歓声に迎えられて、嬉しそうな入場してきた彼らの顔が今でも忘れられない。勿論ライブは最高峰にまだ達していない右肩上がりのザ・スミスの勢いを感じさせる熱いものだったことは言うまでもない。今となっては閑古鳥が鳴いていた時代のハシエンダの懐かしい(美しい?)思い出だ。
それから3年後86年に入るとDJのマイク・ピカリングが、シカゴのハウス・ミュージックをかけるようになり、ハシエンダは英国北部のクラバーの人気を集め、それが次第に拡大、アシッド・ハウス・シーン、レイブ・シーンの中心となっていった。イギリス北部には昔からノーザン・ソウル・シーンとよばれる黒人音楽をかけるダンス・クラブが大衆娯楽として人気を得ていたが、そんな土壌がこの背景にあった。また同時期にハッピー・マンディズやマンチェスター出身のストーン・ローゼズが世界的な人気を確立するとマンチェスターのロック・レイブ・シーンは“マッドチェスター”という名のもとに全盛期を迎える。そしてその中心地といてハシエンダも最盛期を迎えることになるのだ。その人気たるや凄まじく、なんとニュー・オーダーのドラマーのスティーブン・モリスは、彼の顔を知らないドアマンのせいで、ハシエンダに入るのに入場料を払わされた!!という、笑えないようなエピソードも・・・。「なんで自分のクラブに入るのに入場料を払わされるんだ!!」と後で怒っていた。



