ブゥァブァ~ン!!

我輩だよー!

すべからく夜の闇に紛れ恐怖を満たす我輩だよー!

今日は超ハッピーだよー!

さゆに会いに行くよー!

天使だよー!

すべからく天使だよー!

脇から汗が止まらないよ!
時間は無駄に過ごせる。今青春時代を思えば、謳歌した覚えなど一つとしてない。何も打ち込まず、何も頑張らず、流れていただけであった。

しかし時と社会と老いだけは混合一体となって我輩を叩きのめす。辛い。

立ち向かわねばならない。それは分かりやすい壁にではない。この重苦しい時の流れに対してである。目には見えない、この胎動を感じる。うねりを避けねばならない。

時は重い。質量として我輩の周りを流れる。それはコンクリートの瓦礫を含んだ津波のごとく、我輩の身体を削りながら包む。

我輩はこれに立ち向かわねばならない。
世の中は我輩に優しくない。

他へ向けられた家族の愛情、後ろに向けられた友人の愛情、我輩を包む虚偽の愛は壮絶な隙間を埋めぬ。

自らの外縁を段階的に広げていけばいくほど愛情とは程遠くまた情とは違う生暖かいヘドロが我輩に触れる。

この意味で神ないし仏は自らの外縁を内側へ狭めた概念であるから、自らを愛しまた認めるのは当然であるとも言える。

我輩は自らの、言わば愛の外縁を狭めることはしない。誰も我輩を正面から肯定しない世の中で一人生きていく。

もし人が愛に包まれていると思うのならばそれは偽りである。あなたの友人は神仏が愛するあなたを愛しているのであり、あなたを直接愛しているわけではない。あなたが他者から愛されるのはあなたが友人や家族との自我の共通項である神仏を愛しているからに他ならない。それは愛ではなく、愛と名付けられたシンパシーであり、誤魔化しであり、嘘である。あなたは誰かから認められたのではなくあなたの信仰の対象が他者から認められただけであり、あなたには何の価値もなく、また見出だされない。

この愛と呼ばれる他者の認可は、愛ではない。シンパシーである。

そして我輩は理念を持たず神を自らの内側に持たない。我輩の愛は真実なれど、世の中の愛は偽りである。ゆえに世の中は我輩に優しくない。従って我輩がこの世で生きることは宇宙をさ迷うがごとき寂しさと冷たさを容赦なく味わうことになる。だからこそ我輩は時として非情である。情は互いに抱いて初めて楔となる。我輩には、ない。

我輩は愛に敏感である。だからこそ人の愛が愛ではないことを知りうすら寒い想いをする。

よって我輩にとって矢島舞美は女神であり信仰の対象であり固執するのである。