こんにちは。
お久しぶりです。
なかなかブログを書く時間が無かったのですが、近況を聞きたいとコメントを頂き、このブログの事を思い出しました。
1年前のブログで述べたように、僕は昨年度で前職場を退職し、NPO法人の研修生?という立場で活動しています。
研修生?と表記したのは今現在は日本国内で、このNPOに賛同している企業に短期雇用という形で半年という期間のみ働いているからです。
あと数か月で短期雇用の任期も終了するので、本格的に活動を進めていきます。
今はその準備期間という感じです。
元々、海外支援をしていきたいと思い今の専門職種に就きました。
そのため、あと数か月で海外支援のために海外に行く予定です。楽しみな面もありますが、不安の方が強いです。
しかし多くの人が海外では待っているので、その人たちの笑顔を見れるように頑張っていきます。
海外支援というものは簡単ではありません。
だって自分の母国ではないところに行き、その人たちのために活動するのですから。
日本国内でも困っている人たちはたくさんいます。
それを一旦休止してまで海外に行く意味は何なのか?
僕はそれに対する答えを、『確固たる信念』を持っていると思っていました。
今のNPOではそういう理由もあり、自分と向き合うということをたくさんやります。
まずは自分を知らなければ?ということなんだと思います。
それを繰り返し自分と日々向き合う中で、自分の『確固たる信念』は偽りの土台の上に乗っていたため崩れやすいものだと気付きました。
つまり、これがどういう意味なのかというと、自分自身を全く理解できていなかった。色んなことから逃げていて自分の目の前で起きていることから目をそらそうとしていたという意味です。
今までも自分のアイデンティティと向き合おうとしていたつもりでしたが、本当の意味で向き合うことができていなかったのです。
今までは何のために自分が生まれて、今このように生きているのか?わかりませんでした。
教会では模範解答のように教えていますが、それ+α、一人一人にそれぞれの生きる目的があるのだと思います。
その手助けをしているのが宗教なんじゃないでしょうか?
まだ新年度になって3か月ちょっとですが、僕は『僕の生きる道』を見つけられたような気がします。
『人の安心できる環境を創る』
これをやるために僕は今このような活動をやっているのだと思います。
まだまだ具体化はされていませんが、残りの期間で実践化できるまで煮詰めていきたいと思います。
これを実践するためなら、今の専門職でなくてもいいのではないか?思えるほど自分が柔軟になってきています。
『僕の生きる道』を見つけた瞬間今まであった重荷がすこし減ったような気がします。
正直なところこのブログに記してあるのは僕の全てではありません。
過去にブログ内で様々な辛いこと、苦しいことなどを記してきました。
ですがそれ以上に自分が辛かったこと、教会の言葉で言えば『恨』、が僕の過去にあります。
それは僕が高校生だった頃です。
僕が教会に本格的に通い始めたのは高校生になってからです。
それまでも両親から様々な教育を受けていました。
教会に通い始めて、最初の頃は両親が僕に対して強く言うことが少なくなりました。
ですが教会にのめり込めばのめり込むほど、その態度が一変してきました。
一時期だと思いますが、両親が教会の人たちから煙たがれる時期がありました。
その細かな理由まではわからないのですが、「教会の人が私たちの事を邪魔しようとしている。あいつらは常に私たちの事を見張っている。だから気をつけろ」と両親(特に母が)が僕に言ってきました。
そこら辺の時期から色々とおかしくなりました。
詳細はあまり思い出したくありません、文章で説明するのはなかなか難しいです。
突然叫びだして怒り出したり、食器を投げて割ったり、階段を勢いよく上がってきて急に距離を詰められ身に覚えのないことで怒ってきたり、個人でやる祈祷をわざと僕の部屋の僕の横でまだ寝ているのにやったり、ケータイの着信が30件になっていたり、ケータイを常にチェックされたりなどなどです。
おかげで僕はいまだに物が落ちたり、急に電話が鳴ったり、人が怒っていたりすると恐怖を感じます。
PTSDほどではないですが、トラウマになっているのは明らかです。
家に帰宅した時間が5分でも遅れれば、「教会に寄って私たちのことを上に報告してきたのか!?違うならなぜあいつらが家まで来たんだ!?」とも言われました。
あいつらという人は昔から時々家に遊びに来ていた人です。
なんで今更そんなことを言うのか?とも思っていました。
上記で述べた祈祷の事も、僕が部屋で寝ているのに急に部屋に入ってきて祈祷します。
その祈祷内容は「アボジ、私たちを邪魔するものたちがたくさんいます。私たちを殺そうとする者たちです。私が死ねばわかるのでしょうか。死んでしまえばいいのでしょうか。」など、朝4時であるにもかかわらずその祈祷を2時間も続けていました。
そういう日々が2年間くらい続きました。
そこまでするなら教会なんか行かなければいいのにと思っていたのですが、普通に教会に通っていました。
一番許せなかったのは教会にもあまり行っていない弟にまで急に怒鳴りだして泣かせていたことです。
それに対してはさすがに反抗しましたが、自分に対してのことはひたすら我慢をし続けました。
もしかして家に帰ったら両親は自殺しているんじゃないか?とも思い、怖かったです。
あの日々は精神的に辛かったですね。
生きた心地がしなかったです。
それから僕が高校を卒業したあたりから徐々に収束していきました。
その時期のことは僕にとってずっと『恨』でした。
この手ですべてを終わらせたいと思った時期もありましたが、そこまでの勇気はありませんでした。
ですが最近はその経験があったからこそ
僕の生きる道は『人が安心できる環境を創る』ということなんじゃないのか。
それを見つけるための、あの時の辛い経験があったのではないかとポジティブにとらえられるようになってきました。
今までみたいに自分の感情を抑圧してポジティブに捉えようとしているわけではなく、素の感情でそう思えるようになってきました。
少し成長できたかなと最近では思っています。
僕の近況はこんな感じです。
教会の人なんだからこうあるべき、こうしなければならない。
その考えを、その枠組みから飛び出してもいいのではないでしょうか?
そしたら今日はこの辺にします。
おやすみなさい。