9月2日、永遠に妻と別れた日でした | 妻を亡くした夫と母親を亡くした娘の生活

妻を亡くした夫と母親を亡くした娘の生活

2016年9月病院で愛妻が亡くなりました
夫は翌年大学生になった娘と愛犬2匹と暮らしていました
2022年11月二女が動物病院で亡くなりました
2024年1月に三女が後を追うように亡くなりました
大学生の娘と二人家族になりました

2年前のメモを転載します。

 

2016年9月2日(金)

8時30分自宅にT医師より電話があり、夜の間は安定していたが、朝になってから不安定な状況なので来て欲しいとのこと。すぐに出発して9時にHCUに到着した。ほどなくT医師とS医師が現れて面談室で説明開始。もう助かる見込みがないとの医師たちの宣告に覚悟を決めた。12時に家族を連れて来たいがそれまで持ちますかとの質問にS医師が首をかしげたので、1時間早く11時に来ることを約してHCUを去る(9:30)

自宅に急行し長女を伴い妻の実家へ、それから病院へ。義父、義母、長女を伴い11時入室。明らかに状況は悪化していた。目を見開いているが、焦点は定まっていない。呼吸も苦しそうだ。熱は36度台に下がっているが、もう活力が残されていないのかもしれない。みんなで散々泣いたが、本人の息は吹き返しそうにない。いったん病室をあとにして再度危険なときに連絡してもらうことで待機する。12時30分蕎麦屋で昼食中にT医師より電話があり、実質的主治医のK医師が13時に面談希望とのことで了承する。一人でK医師と会うが、説明はS医師の説明と同じだった。ただK医師はまだ回復の希望があるという。本当にあるのだろうか。その後、長女と院内のカフェでコーヒーを飲んでいたらH医師から電話があり、体が震えてきているのでそろそろだとの情報を得たので義父、義母にも声をかけHCUに向かった。14時30分だった。妻は終末期を迎えていたのは明らかだった。ありったけの声を出して感謝の言葉を伝えた。長女もこれまでに伝えきれなかった思いを十分に伝えた。1時間以上声かけをしたと思う。H医師が心臓はまだ当分動くのでいったん別室で控えていただきましょうと言った。HCUは治療重視の現場で15分の面会が原則なのに、我々はもう1時間半以上お邪魔している。同意して移動しようと思った刹那、妻の心臓の拍動数値が低くなった。○子、もう無理しなくてもいいよ、安らかに眠っておくれ、息が途切れ途切れになって10数分経過し、全員見守る中16時21分安らかに旅立った。

 

以上で私が書き続けて来たメモは終わりました。それから葬儀が終わるまでの怒涛の10日間は自分を振り返る時間も心の余裕もなく、何のメモも残していません。もう思う出そうとしても断片しかありません。

さて、昨日の三回忌、やはり妻は究極の"晴れ女"でしたね。天気予報にかかわらず昨日横浜方面は全く降りませんでした。法要の時間どころでなく、墓参りとその後の食事の間も晴れをキープしてくれました。午後帰宅後も時折パラパラとはありましたが、予報通りの大雨となったのは何と23時を過ぎた頃でした。ベッドの上で、雨粒の叩きつける音を聞きながら、妻に有難うと呟きました。合掌。