撫順の春、三月はまだ雪が残っていたように思う。歩道は下にスチームが通っているので雪はないが、車道にはなごり雪が汚れてのこっていた。


今年は、引き揚げ以来、始めてだが、撫順に帰ってみようかと、当時の同級生達と計画している。当時の面影は何も残っていないと、何回か訪れている友人から話を聞いているものの、生きている間に、幼年期を過した異国を訪れるのも、何かあるかも知れない。


故郷とは、長く住みなじんだ場所、または懐かしく思い出される住んだ所、幼年期を過した場所、少年期を過ごした場所、青春を過ごした場所、指折り数えてみると、生まれてから二十数回も住まいは変わっていた。


旅先で、一ヶ月・二ヶ月と住んだ所を入れると数え切れない。私の故郷はどこなのだろう。



社宅の中心には広場があり、夏は運動会、盆踊りなどの催しが、冬は全面が氷結し、スケート場になり、レースのコースが作られ、その中心ではフィギュアー滑走が優雅に舞っていた。夜間はライトアップされていた。


広場の周りには、図書館、組合(現代のスーパー、コーポ)があり、社員は伝票で買い物ができた。中心に近い社宅程、炭鉱で地位の高い人達が住んでいた。


社宅の子ども達は同じ小学校に通っていた。校歌は作詞が北原白秋氏、作曲が山田耕作氏と著名人によるもので、なんとなく誇らしかった。



大連市にはショートステイで、すぐに父の赴任先、撫順市に移り住んだ。撫順市の郊外、松岡町が最初の住居であった。父は石炭液化工場に勤務した。


ある夜、煉瓦のお風呂に入っている時に、ドカーンと、液化工場が爆破、したのか、されたのか、その結果、父は、露天掘りで有名な撫順炭鉱に転勤となり、一家も郊外から撫順市内の社宅に転居した。