アルマは神の戒めを蔑ろにしていた生き方を思い霊的な悲嘆に暮れていた。

 しかし、深い絶望の中で「イエスキリストは神の御子であり、世の罪を贖う為に来られるという」ことを思い出す。 


 アルマは、救い主の聖なる力にすがるように、私を憐れんでくださいと叫んだ。

 この時もはや苦痛を忘れることができた。

 アルマは平安と光を感じ、喜びを味わうことができた。 


 アルマはイエスキリストの贖いの犠牲という真理に手を伸ばし、身を委ねた。 

その真理に基づく信仰を持って行動したこと、また神の力と恵みによって、彼は絶望から救われ、希望に満たされたのである。


 私たちの心も、主の憐れみに満ちた犠牲への思いがはっきり浮かんだ時に、霊的な光と喜びを感じる。 


 イエスキリストへの思いを、さらに意識的に形作り、強くし、定着させる。 

それが心へしきりに流れ込むようにし、考えや行動の指針となり、継続的に救い主の愛という快い喜びがもたらされるようになる。


 主の愛や生涯、教え、贖いの犠牲、輝かしい復活に心を向ける。  

主イエスを常に心に思い、主を誉め称える。
祈りをささげ、主に近づいた経験を心の中で反芻する。 


 主に対する愛が、この死すべき世における不幸や悲しみの盾になってくれる訳ではないが、自分の力を遥かに超える強さを得て苦難を乗り越えていくことができる。


 私たちは天の御父の霊の子供です。 


 御父は私たちが地上に来て学び、御父の身元に戻るという、完璧な計画を立てられた。 

御父が御自分の愛する御子を遣わしてくださったので、私たちは御子の無限の贖罪と復活の力によって墓を超えて生きられるようになった。
そして、進んで御子を信じる信仰を働かせて罪を悔い改めることで私たちは赦され、永遠の命への希望を受ける。 


 私たちは自分の心で善と悪を識別し、選択し、行動する。 

神である御父、御子であるイエスキリストの教えがこの世と、墓を超えた永遠の世においても、幸福へと導く指針であるのです。 


 総大会は主が私たちに何を行ってどのような人になって欲しいと望んでおられるのかを理解する時です。 

義にかなった献身的な教会員に霊的な強さが増し加わります。


 聖餐ではイエスキリストのことを思い、いつも御子を覚えるという約束を交わすのです。 


 主の声を聞くという勧告に従うことで、聖霊のささやきに気づく能力に磨きがかかり、自分の人生に主の御手を見るようになる。


 神殿に参入することで、約束された主の祝福を受けます。 

救い主、贖い主の類いまれない貴さをさらに力強く感じます。 


 救い主とその福音に焦点を絞ることが大切。

 あらゆる思いの中で、主を仰ぎ見ようと努めるには精神的な強さが求められる。

 イエスキリストに注意を傾けると、あまり大切ではないことに惑わされることが減り、主の光と属性に調和しないものを排除できる。 

このイエスキリストへの思いがはっきり浮かぶように絶えず心を配り、主を信頼し、戒めを守り続けるのならば、天から導きだけでなく、天の力がもたらされる。 

この力は聖約に強さを、苦難に平安を、そして祝福に喜びをもたらすのです。


 救い主の贖いの犠牲と輝かしい復活は完全かつ絶対的な真理です。 

心にイエスキリストへの思いを、永遠に揺るがず、はっきりと浮かべ続け、また、さらに救い主を中心とした人生を歩み続けるのなら、主の希望と平安、そして主の愛を感じることができるのです。


 by ニール・L・アンダーセン(リアホナ、2023年5月号、総大会、91ページ)