70 racing project

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T.YOSHIKAWA Official blog

奈良県は十津川村「神様に呼ばれないと辿り着けない」と言われるスーパーパワースポット『玉置神社』
年が変わり令和七年の一月もあっという間に過ぎ去り、二月となってしまいました
Youtubeをごらん頂いた視聴者様はご存知だと思いますが、十二月の山行を12月30日、一月も1月30日に行っておりました
ブログでのご報告が大変遅くなり申し訳なかったですが、両月とも無事に登拝することができました
12月・1月の玉置山動画を2本とも添付しておきますので、ご覧頂ければ幸いです

 

 

 

 

今回は玉石社に如意宝珠を埋めたとされる、空海のお話をしたいと思います
空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉~ 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧
諡号は弘法大師(こうぼうだいし)
真言宗の宗祖
俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)
日本天台宗の宗祖である最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらしました
能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています
仏教において、北伝仏教(漢伝仏教)の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもあります
生誕は宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説があります
父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘の玉依御前
幼名は眞魚(まお、まいお、まな諸説)
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日と云わっていますが、正確には不詳です
延暦7年(788年)、平城京に上ります
上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在していまた
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びました
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入っています
大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んでいます



 

延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入rました
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』(ろうこしいき)を著し、俗世の教えが真実でないことを示しました
この時期より入唐までの空海の足取りは不詳です
玉置山を訪れたとすると、初回はこの頃であった可能性が高いと思われます
『大日経』を初めとする密教経典に出会い、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばしています
またこの時期に、一沙門(いっしゃもん)より「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を授かっています
『三教指帰』(さんごうしいき)の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されています
このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと言われています
求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていましたが、現在では大安寺の戒明ではないかとの異説も立てられています
戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』(しゃくまかえんろん)の請来者です
空海の得度に関しては、延暦12年に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていましたが、延暦23年、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知ったとされていて、入唐直前31歳の延暦23年(804年)に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されています
太政官譜(だいじょうかんぷ)では延暦23年(804年)4月7日出家したと記載されています
空海という名は太政官譜が初出です
鎌倉時代成立の『御遺告』(ごゆいごう)には私度僧として無空とも名乗ったともあります



 

延暦23年(803年)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦も活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡ります
第18次遣唐使一行には、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もいましたが、空海はまったく無名の一沙門でした
同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から入唐の途につきました
空海や彼と同様に乗船していた貴族の橘逸勢は遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していました
第3船と第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみでした
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(804年)8月10日、福州長渓県(ふくしゅうちょうけいけん)赤岸鎮(せきがんちん)、現在の福建省赤岸村に漂着
海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられます
このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆しています
また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述していたようです
その理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入りました
永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となります
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵
密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけました
空海は般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられます
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになります
恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けます
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました
この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになります
このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表しています
8月中旬以降には、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果和尚からは阿闍梨付嘱物(あじゃりふしょくもん)を授けられました
伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点
対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉(えごうろ)を献上しています
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂
元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草しました
そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在しています
ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました
折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得てその帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途につきました
途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになります
福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたと言われています
そして大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着します
大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、宗像大社神宮寺であった鎮国寺を創建しました
10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出
唐から空海が持ち帰った多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付嘱物などが『請来目録』に記されています
空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、空海に対して朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年10月の帰国後は入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされました
大同2年(807年)より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しています
この時期空海は個人の法要を引き受け、その法要のため密教図像の制作などをしていました



 

真言密教の確立までの足取りは、大同4年(809年)、空海はまず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺に入りました
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があり、その後2人は10年程交流関係を持っていました
密教の分野に限っては最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていました
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃に訣別します
2人の訣別に関しては、後述の最澄からの理趣釈経(りしゅしゃくきょう)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題もありました
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行っています
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて、乙訓寺(京都府長岡京市)の別当を務めました
弘仁3年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇します
さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇
入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました
弘仁4年(813年)11月23日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れましたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行は二の次という理由で空海は拒否しました
弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼しました
時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなっています
この頃『弁顕密二教論』(べんけんみつにきょうろん)を著しています
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜ります
翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在しました
弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手しました
この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆しました
弘仁10年7月、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住します
勅命の理由は不詳ですが、官人の文章作成能力の向上という天皇の依頼に応えるためだったとみられています
弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導きました
弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立
この年平城上皇に灌頂を授けました
弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました
天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修しました
3月には少僧都に任命され、僧綱入り
6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となりまた
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』(そうげんしゅちいんしきならbにじょ)を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設
当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていませんでしたが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた学校でした
綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもありました
『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示しています
ただし、実現はしなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶しました
はるか後年になって、種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいます
天長6年(829年)、白雉元年(650年)に役行者が創建したとされる京都の志明院を再興しました
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)十巻を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)三巻を著しました
天長8年(831年)5月末病を得て、6月大僧都を辞する旨上表sますが、天皇に慰留されました
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修されました
空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表しています
秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々に入りました
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じました
12月19日、毎年正月宮中において真言の修法を行いたい旨を奏上
同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されています
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修します
1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されています
2月30日、金剛峯寺が定額寺となりました
3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日午前4時に入定しました
享年62歳
伝真済撰『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付されたとあります
しかし後代には、入定したとする文献が現れました
天長8年に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化とその存続のために尽力しました
とくに承和元年12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行っています
すべてをやり終えた後に入定したと言えるでしょう



 

弘法大師の名の由来については、延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢(かんげん)の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)と桧皮色の御衣下賜の勅命が下されました
その後、観賢とその弟子の淳祐(しゅんにゅう)は下賜伝達のため高野山の御廟へ行ってます
高野山壇上伽藍・根本大塔の塔内には昭和天皇宸筆の扁額「弘法」が掲げられています
最初は「本覚大師」の諡号とされていましたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号となったそうです
中世に入ると、空海の評伝は絵画化されます
「弘法大師伝絵」と呼ばれ、絵巻の作品が中心です
「高野大師行状図画」、「弘法大師行状絵巻」など空海のさまざまな伝説が、全国に知られる一因ともなりました
真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとしています
高野山奥之院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認することが修行の一環となっています
なお、真言宗醍醐派では、空海に大師号が贈られる以前から帰依し信仰していたことを強調するため「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合があrます
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めています
入定に関しては諸説あって、高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥之院の霊廟において現在も空海が禅定を続けているとされています
歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されています
桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされています
現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』です



 

空海に関しては史実にまして伝承が多く、開山伝説や開湯伝説などが無数に存在しています
たとえば開湯伝説、弘法大師が発見したとの伝承のある温泉は、日本各地に存在します
あつみ温泉・大塩温泉・芦ノ牧温泉・出湯温泉・瀬戸口温泉・清津峡温泉・関温泉・燕温泉・川場温泉・法師温泉・修善寺温泉・伊豆山温泉・湯村温泉・鹿塩温泉・海の口温泉・赤引温泉・龍神温泉・関金温泉・湯免温泉・千羽温泉・清水温泉・東道後温泉・杖立温泉・熊の川温泉・波佐見温泉
これ以外にも後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの温泉もあります
(高野聖のうちには、その離農的な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探り当てた際に宗祖たる空海の名を借用したともいわれています)

以下は弘法大師が由来とされる伝説や伝承があるものです
平仮名・いろは歌・灸・讃岐うどん・手こね寿司・九条葱・曜日・水銀鉱脈の発見・ダウジング・見附島 (石川県)・橋杭岩・小倉あん

ことわざ・慣用句
弘法も筆の誤り
空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになったが、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまいました
空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれています
このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っていますが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味が含まれています

弘法筆を選ばず
文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないという意味のことわざ
ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及があります
良い道具の選択が重要であることも世には多く、「弘法筆を選ぶ」のように全く逆に転じた言い回しもあったりします

護摩の灰(ごまのはい)
「弘法大師が焚いた護摩の灰」と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師のことをいいます
後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになりました


 

はい、今回は弘法大師・空海さんのお話でした
彼の生涯の流れから見るに、玉置山に来ていたことはほぼ間違いないと思います
それも一度だけではなく、何度も訪れていたように思います
空海が玉石社に如意宝珠を埋めたという伝承が真であるとすれば、一切の願望をかなえたのでもう必要なくなりましたという意味だったのでしょうか?
それとも、願望とは欲にも繋がるという悟りの上の行動であったのか、またより大きな願望のために玉石社の霊石に願をかけたのか
そもそも如意宝珠というものが本当にあるのか・・・
宝珠の形をした白い玉石だったのでは・・・
よこしまな私には邪心しか湧いてきません(笑)

 

でわでわまた