🎙 笑いの原点はラジオだった

戦後の混乱期、物資が乏しく娯楽も少なかった時代――唯一心に灯をともしてくれたのはラジオでした。週に2回ほど流れる寄席番組の中で、昭和の落語の巨星たちが聴衆を爆笑の渦に巻き込むその姿に、少年・桂歌丸は心を撃ち抜かれます。

「ああ、これしかない。俺の進むべき道は“はなし家”だ」

わずか10歳にして彼の進路は定まったのでした。迷いなし、一途な思いが彼を突き動かしていくのです。

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👵 祖母とのやりとり、噺家への第一歩

3歳で父を亡くし、母とも離れて暮らしていた歌丸少年。彼を育てたのは祖母でした。小学校卒業後すぐに噺家になると話すと、祖母は「中学だけは行きなさい」と一言。仕方なく通学するも、宿題そっちのけで落語漬けの日々。ついに中学3年で正式に前座デビューしてしまうという早熟ぶりが、彼の本気度を物語ります。

 

🎭 “古今亭今輔”との修行時代

昭和26年11月、古今亭今輔師匠のもとに入門し、翌年には落語芸術協会の前座として活動開始。舞台袖で持ち時間を調整しながら、先輩芸人の話芸を吸収する日々。客のリクエストに見せかけて自分が聞きたい噺をお願いしちゃうというちゃっかりエピソードも登場します。演者との距離が近く、学びと感動に満ちた修行の日々だったのです。

 

今どきの前座は“効率的すぎる”?

近年の若手前座たちは、決められたルールを守ることを重視しがち。昔のような「噺家に甘える遊び心」は減ってしまったと歌丸師匠は語ります。そして、精神力が足りない者も多く見受けられる、と少し残念そうな様子。

 

🔥 “いま辞めないなら、死ぬまで続けろ”

師匠が若手に必ず伝える一言は、極限の覚悟を求めるものです。歌丸自身も、貧困や苦悩を経ても一度たりとも「辞める」とは思わなかった。目の前の暗闇の先には必ず“光”が差すと信じていたのです。

この言葉の重み、尋常じゃない…。

 

👂 若手にも魅力はあるんだ

ただし批判ばかりではありません。若手の噺を聞いて「なるほど、こう来るか」と驚かされることも多いそう。「自分だったらこう演じるな」と考えるのも修練の一部。だからこそ、トリ(最後の出番)を務める日でも、最初から楽屋にいて全員の話を聞くのだとか。

この謙虚さと向学心、噺家としての懐の深さが感じられます。

 

🍢 こぼれ話①:落語とおでん屋の不思議な関係

浅草にある老舗おでん屋「大多福」では、常連の落語家がネタ帳代わりに箸袋にアイディアを書き残していたとか。酔いが回っても芸の構想だけは忘れない。その袋が店主によって保管されていて、落語界の“影のアイデア帳”として一部では語り草となっているそうです。

 

🌒 こぼれ話②:亡き祖母へ捧げた一席

桂歌丸が最後の高座で披露した演目「牡丹灯籠」のラストでは、噺の中で祖母の名をさりげなく呼びかけたとされる逸話が存在します。観客には真意は分からないまま終わりましたが、楽屋では「今日は何か違った」と囁かれていたとか。演者と故人が舞台上で交差する奇跡――粋すぎる…。

 

🫖 ちょっと おしゃべり

最近、寄席の客席に若者の姿が増えましたね。SNSで落語がバズることも。伝統芸能も「推し文化」と融合してる時代。笑点の司会をしていた歌丸師匠が、現代の配信文化を見たらどんな風に語るのでしょう?きっと「そんな手もあるのか!」って目を輝かせていたに違いありません。

 

 

📺 初回からカラー放送だった異例の笑点

 1966年の放送開始当時、カラーテレビの普及率は1%未満。それにもかかわらず、笑点は初回からカラー放送を敢行。これは「笑いは色彩とともにあるべき」という制作陣のこだわりだったそうです。

🪑 座布団制度は“落語界の権威”を逆手に取った発明 回答者が座布団をもらったり取られたりするシステムは、談志さんが「落語家の権威を笑いに変える」ために考案したもの。座布団を積み上げることで“偉くなる”という皮肉が込められているんです。

 

 

 

 

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