ヒプノシスに関するニュースを先日、ネットで見つけて読んだ。
何のことだか分からない人のために説明すると、70年代から80年代にかけて多くのアーティストのレコードジャケットを手がけたイギリスのデザイングループで、有名なところではピンクフロイドの「原子心母」やツェッペリンの「聖なる館」などがある。
日本だとユーミンの「昨晩お会いしましょう」が彼らの作品として知られている。
この70年代~80年代というのは素晴らしい音楽の宝庫であり、ジャケットもレコードを買う上で大きな魅力の一つだった。しかしCDへと録音媒体が移行してからのことしか知らない人たち、今で言う「ビニル」を買い漁る音楽マニア以外の人たちには、この辺りの話への関心は薄いだろう。
俺はデジタルやテクノロジーを否定するわけではない。しかし、絵画にたとえるとアナログは「油絵」であり、デジタルは「リトグラフ」のようなもの。深みというか、奥行きというか、そうした部分で違いが生じるのは致し方ないことだと感じている。
「ジャケ買い」という言葉が今でも残るが、これはあくまでも「レコードジャケット」に限ったことであり、CDに対して「ジャケ買い」なんてのは当てはまらない気がする。それは映画をスマホの画面で観るのに等しく、内容は相違なくとも縮小されたがゆえに本来あるはずの迫力が伝播しづらいからだ。
また、インターネットもない時代、そしてレンタルレコード店も存在しない時代、我々は音楽誌のレビューか先輩や知人からの評判、あるいはFMラジオ番組からでしかアルバムの中身に関する情報を得られなかった。そこでも情報が手に入らない音楽に関しては、一体どんな音がレコード盤に刻まれているのか、買ってみるしかなかったのである。
そこで「ジャケ買い」をするのだ。得体の知れないアーティストの音楽的志向やセンスをジャケットのデザインから読み解くのである。当たりもあったし、当然、ハズレもたくさんあった。アルバム内の音楽が忠実にジャケットデザインに反映されているわけではないからだ。しかし、そんなこんなの情報不足からの失敗も含めて「楽しい時代だった」と俺には思える。
インターネットの普及前後を比べると、情報量に400倍の差があると言われている。
しかし、ただ単に情報量が多いことがいいことなのかと考えると甚だ疑問でもある。確かにあらゆる分野において瞬時にある程度の情報が得られるのは便利だし、何をする上でも選択肢は増えてくる。しかし逆に、過多となった情報を取捨選択する必要が生じ、その能力が問われることになる。また、一つの情報に対しての解析も異なってくる。
情報が多ければ多いほど、対する接し方は表面的にならざるを得ないからだ。
俺たちの時代はレコードを買ってくると、親が寝静まった夜中にステレオにヘッドフォンを繋いで大音量で、ライナーノーツを読みながら、歌詞カードを目で追いながら、丁寧に何度も何度も繰り返し一枚のアルバムを聴いたものだ。
「ビートルズの『アビーロード』って聴いたことある?」
「ありますよ。いいっすよね、あれ。ロックの名盤ですからね」
「どの辺りがいいと思うの?」
「いや、まぁ何となく・・・」
さらっと一応、聴いただけの人と、当時のメンバー間の状況やアルバムが作られた背景を理解しながら聴いた者とでは同じ情報でも得られるものは違うのだ。
「君は、この曲を歌えるかい?イントロを、ギターソロを、口ずさめるかい?そこまで深く付き合ってこそ理解できる世界ってのがあるんだぜ」
・・・あぁ、何だか書いていてジジ臭くなったな。いつの間にか、そういう歳になった。
何のことだか分からない人のために説明すると、70年代から80年代にかけて多くのアーティストのレコードジャケットを手がけたイギリスのデザイングループで、有名なところではピンクフロイドの「原子心母」やツェッペリンの「聖なる館」などがある。
日本だとユーミンの「昨晩お会いしましょう」が彼らの作品として知られている。
この70年代~80年代というのは素晴らしい音楽の宝庫であり、ジャケットもレコードを買う上で大きな魅力の一つだった。しかしCDへと録音媒体が移行してからのことしか知らない人たち、今で言う「ビニル」を買い漁る音楽マニア以外の人たちには、この辺りの話への関心は薄いだろう。
俺はデジタルやテクノロジーを否定するわけではない。しかし、絵画にたとえるとアナログは「油絵」であり、デジタルは「リトグラフ」のようなもの。深みというか、奥行きというか、そうした部分で違いが生じるのは致し方ないことだと感じている。
「ジャケ買い」という言葉が今でも残るが、これはあくまでも「レコードジャケット」に限ったことであり、CDに対して「ジャケ買い」なんてのは当てはまらない気がする。それは映画をスマホの画面で観るのに等しく、内容は相違なくとも縮小されたがゆえに本来あるはずの迫力が伝播しづらいからだ。
また、インターネットもない時代、そしてレンタルレコード店も存在しない時代、我々は音楽誌のレビューか先輩や知人からの評判、あるいはFMラジオ番組からでしかアルバムの中身に関する情報を得られなかった。そこでも情報が手に入らない音楽に関しては、一体どんな音がレコード盤に刻まれているのか、買ってみるしかなかったのである。
そこで「ジャケ買い」をするのだ。得体の知れないアーティストの音楽的志向やセンスをジャケットのデザインから読み解くのである。当たりもあったし、当然、ハズレもたくさんあった。アルバム内の音楽が忠実にジャケットデザインに反映されているわけではないからだ。しかし、そんなこんなの情報不足からの失敗も含めて「楽しい時代だった」と俺には思える。
インターネットの普及前後を比べると、情報量に400倍の差があると言われている。
しかし、ただ単に情報量が多いことがいいことなのかと考えると甚だ疑問でもある。確かにあらゆる分野において瞬時にある程度の情報が得られるのは便利だし、何をする上でも選択肢は増えてくる。しかし逆に、過多となった情報を取捨選択する必要が生じ、その能力が問われることになる。また、一つの情報に対しての解析も異なってくる。
情報が多ければ多いほど、対する接し方は表面的にならざるを得ないからだ。
俺たちの時代はレコードを買ってくると、親が寝静まった夜中にステレオにヘッドフォンを繋いで大音量で、ライナーノーツを読みながら、歌詞カードを目で追いながら、丁寧に何度も何度も繰り返し一枚のアルバムを聴いたものだ。
「ビートルズの『アビーロード』って聴いたことある?」
「ありますよ。いいっすよね、あれ。ロックの名盤ですからね」
「どの辺りがいいと思うの?」
「いや、まぁ何となく・・・」
さらっと一応、聴いただけの人と、当時のメンバー間の状況やアルバムが作られた背景を理解しながら聴いた者とでは同じ情報でも得られるものは違うのだ。
「君は、この曲を歌えるかい?イントロを、ギターソロを、口ずさめるかい?そこまで深く付き合ってこそ理解できる世界ってのがあるんだぜ」
・・・あぁ、何だか書いていてジジ臭くなったな。いつの間にか、そういう歳になった。