先週の土曜日は叔母の十三回忌だった。
先祖が眠る墓は新宿にある。
歌舞伎町のハローワーク正面、周囲は韓国街と化している。
長光寺という曹洞宗の禅寺で少なくとも江戸時代から同じ場所にある。俺の家は、その寺の最も古い檀家だ。
そう書くと、家系自慢のように聞こえるかも知れないが、かつて寺の周囲にあった土地は山師であった先祖がとうに売り払い、今は墓だけが残っている。都落ちした子孫は、フナッシー人気でにわかに知名度を上げた船橋市の奥の方でひっそり暮らしているのが実状だ。
俺の家系は先細りであり、兄夫婦には子供がなく、俺の娘もとうに元嫁方の姓に変わっていて、向こうの家の墓参りこそしても新宿の墓には来たことがない。
つまり、このまま行けば俺の代で家は滅びることになる。先祖には誠に申し訳ないが、それが現実である。
法事に集まったのは五人、両親に兄夫婦と俺だけ。生涯独身だった叔母の供養に集まる者は他に居ない。
位牌に読経していただき、それから墓参して花と線香を手向けた。
父は趣味で陶芸をしており、自宅には轆轤や窯もある。陶芸クラブの会長もしているのだが、その作品は親族として贔屓目に見てもパッとしない。風格に欠けると言うのか何というか、奇を衒った作風が裏目に出てばかりで、まぁ一言で言うならパッとしない。
先日の法事の際にも、応接間に置かれた安定感の悪い花瓶を見て、集まった家族して笑ったところだった。
季節は巡り、人は年老いてやがて死んでいく。
この世は諸行無常であり、永遠に続くものなどないならば、我が家が滅びたとて大した問題ではないのかも知れない。
ただ、与えられた命がある間はそれを全うするのが責務であり、先祖があってこそ自分が存在しているということに感謝の念を怠ってはならないと思っている。
そして、自分が生かされている意味のようなものを何かしら見つけてからこの世を去りたいと考えている。
庭に咲いたチューリップが先に話した花瓶に生けられた。意味もなく口を広げた不恰好な花瓶の中で自由に花を揺らすチューリップを見ていると、馬鹿にしていた花瓶の形もあながち悪くないなと思えてくる。
単体ではサマにならぬようなものでも存在しているのにはきっと意義があって、やがてはその個性が活かせる機会が必ず訪れるものなのだ。
父の花瓶が、俺にそう語りかけている気がする。