週末が終わり、また単調な日常が始まる。
俺は夜勤で輸入貨物の税関提出用書類を作成する仕事をしている。勤務時間は夜の8時から朝の5時まで。普通の人とは間逆の時間帯での生活を、もう十年ほど続けている。
何だかんだ言いながらも夜勤を続けているのは、やはり人が少ない時間帯だからかもしれない。
道路が空きはじめた時間帯に車で職場へと向かう。朝も本格的な渋滞が始まる前に帰宅出来る。過剰な人口集中のストレスからは開放される反面、当然のことながら、他人と接触する機会は減る。つまり、出会いに乏しくなる。
夜の時間帯に働く女性は少ない。時給は良くても美容にはよろしくないだろうし、金を稼ぎたいなら他にもっと稼げる仕事がある。当然、職場は男ばかりで、それゆえの気安さはあるが色恋沙汰は無いに等しい。たまに別のチームで「あの二人、出来てる」なんて噂は耳にするが、少なくとも俺には縁が無い。
そうした環境も手伝って、俺は離婚して以来、さほど大きなロマンスには恵まれていない。
ただ再婚などを渇望しているかと言えば、そうでもない。俺に原因があって離婚したわけだが、最愛の娘と離れて暮らす辛さはこたえたものの、再び独身に戻れた喜びもあった。
女性の価値観に合わせて生きるのは、俺のような根っからの自由人にとっては苦痛だ。
まず、自分の行動に干渉されるのが耐えられない。さらには興味の無い買い物に付き合わされたり、逆に自分だけの時間や自由が奪われたりすると鎖に繋がれた犬のような気分にさえなってくる。
だから、今となってはこのまま一人で自由気ままに生きて、一人で死んでいくのかなとも考えている。
しかし、自分と同じような感性を持った存在、例えばジョンとヨーコみたいな関係が築ける異性が居れば、それは楽しいだろうとは思う。ただ性別が異なれば、当然、価値観も大きく違ってくる。そんな自分に都合の良い異性がこの世に存在するとは思えず、仮に居たとしても運良く巡り会えることもないだろう。
以前にテレビで「ソウルメイト」と呼ばれる「魂同士が繋がっている存在」を特集した番組を観た。生まれる前から心が通じ合う組み合わせがあるのなら、羨ましいと思った。どうやらジョンとヨーコもソウルメイトだったと聞いたこともある。
今回、秋葉原で出会った彼女は、ひょっとすると俺のソウルメイトではないだろうか。
もともと秋葉原に集まる予定は別の日だった。しかし、大雪で交通機関が麻痺したために延期していた。もし雪が降らずに当初の予定通りに集まりがあったとしたら彼女と出会えただろうか。おそらく、出会えなかったに違いない。
偶然と言えばそれまでだが、いくつも重なると必然に思えてくる。ひょっとすると、これは神様が俺に与えてくれたビッグチャンスなのかもしれない。
俺が死んであの世へ行ったとする。雲の上には、まるで学生食堂のようにたくさんのテーブルが並んでいる。俺はその中の一つに無意識に近づいていく。
「おつかれ」
「やっと終わったよ」
俺は初対面だけど、どこか懐かしい人々と話をするのだ。
「お前さぁ、あんなにも分かりやすいサインを何で見逃しちゃったの?」
「だよねぇ。やっぱ、そうだよね」
彼女を見逃したら、そんな場面が待っているような空想をした。
単なる恋愛感情とは違う。
そんな言葉では語れないほど、稀有で貴重な思い入れがある。
例えば100人の女性が居れば、その中の数人は恋愛対象となり得るだろう。でも選択肢のない質問、つまり数多の回答が考えられる中で俺と全く同じ答えを持つ女性がどれほど存在するというのだ。
ただ、俺もいい大人なので、恋愛には双方合意が大前提であることも十分に承知している。親子ほど歳の離れた相手に、この草臥れた中年男を愛してくれと望むのに無理がある。余程の「老け専」でもない限り、その可能性は低い。また、それでも若い女を寄せ付けるほどのステータスや金など俺にはない。
いずれにせよ、一方的に好意を寄せて煙たがられてはならない。関係性を損なうことだけは避けたい。何らかの繋がりが築ければいいのだ。無理に口説いたりするつもりもないし、歳の離れた友達でも、ギター仲間でも、形は何だって構わない。とにかく、この運命的と捉えている相手が俺の人生にどう影響するのか、そんな意味があるのかをしっかり確かめねばならないと思っていた。
何しろ今まで生きてきて、ここまで自分とシンクロする人間と出会ったことなど一度もなかったのだから。俺は一卵性双生児なので自分以外の存在との一致には慣れている。その俺が驚くのだから滅多にあることではないのだ。
彼女は昼間、別な仕事をしていると語っていた。だから店に出るのは週末だけとのことだった。今週は金曜が春分の日なので土日を含めて世間は三連休だ。もちろん俺は今週末も店に通うことを決めている。ただ、いつ行けば彼女に会えるのかが分からない。前回は仲間が居たし、それなりに目的もあったので問題はなかったが、一人でアニメファンやメイド萌えする人種が集う店に行くのは気が引ける。
また、彼女以外の女の子には全く興味はないので、秋葉原まで行ったものの彼女は居らずに別の女の子と話をして帰るのは億劫だ。だから、出かける前に電話で出勤状況を確認しておくことにした。
金曜日の朝、帰宅後に就寝し、目覚めたら既に夕方になっていた。とりあえず支度をして家を出た。目指すのは当然、「声優の卵たち」だ。そこで再び彼女と話して、俺なりに出会った意味を見出そうと考えていた。
近所のコンビニまで車で向かい、そこでタバコとコーヒーを買って車内から店へ電話をかけた。店の電話番号はネット検索すると、すぐに見つけることが出来た。
「ちょっと伺いたいのですが、今日、Uさんは出勤されてますか?」
電話口に出た男性に尋ねた。
「すみません。当店ではそういった質問にはお答えしておりません」
「えっ、女の子の出勤状況は教えられないってこと?」
「はい。申し訳ありません」
「そうですか、わかりました」
諦めて電話を切った。
キャバクラのように指名システムがある店ならば女の子の出勤状況を教えるのは当然のことだろう。客は特定の女の子目当てで来店する。しかし指名制度もないメイド喫茶では、やはりガードが固いようだ。
「さて、どうするかな」
自宅から秋葉原までは一時間強かかる。 「行くべきか、止めておくべきか。明日も休みなので順延するって手もある」
しかし今夜、彼女が出勤している可能性だってあるのだ。
しばらく悩んだ末に、とりあえず行ってみることにした。仮に彼女が居なくても、彼女と親しい子と話す中で、何かしら得るものがあるかもしれない。
俺は車をコンビニの駐車場から出すと、自宅とは反対の、JRの最寄り駅へ向かう方向へウィンカーを点滅させた。
秋葉原へ着き、店のドアを開けるとカウンターに立つ彼女と目が合った。隅の席に座る中年男性と話をしていた。
俺はそのすぐ横の席に案内された。上着を脱いで背もたれにかけながら、足を運んで正解だったと安堵した。
目の前に彼女が立つと俺は言った。
「今日は確かめに来たんだ」
「え、何をですか?」
「こないだ、君に俺は二つの質問をしたろ?一つは『火事になったら何を持って逃げる?』ってヤツ。君は俺と同じで赤いセミアコのギターを持って逃げると言った。そこまでは覚えてるよね?で、もう一つが『宝くじで3億円当たったら何に使う?』って質問。これに君は『山の中に家を買います』と答えてから休憩に入った。実はね、それも俺と全く同じ答えなんだよ。俺も3億が手に入ったら、まず頭に浮かぶのは山の中に家を建てる。かつてアパレルメーカーに勤めるバンドメンバーが居てね。その会社の別荘に、よく仲間で行ったんだ。軽井沢なんだけどね。窓の向こうに特に素晴らしい景観があるわけじゃない、ただの林の中なんだけど。でも、すごくリラックス出来るんだよね。だから、俺も理想はそういう所に家を建てて、のんびり過ごしたいってことなんだ」
「そうだったんですか。わたしはそのまま休憩に入っちゃったんで、まさかそれも同じ答えだとは思いませんでした」
「うん。でね、これってものすごい確率だと思うわけ。一つ目の質問は現在の自分を象徴していると俺は考えてるの。で、初対面の人、たとえば飲み屋の女の子なんかに聞いてみたりするんだけどさ。その人の現在の生活や趣味が持って逃げる物に反映されると思うのね。で、二つ目の質問は未来への願望。その二つが自分とピッタリ一致する人なんて、四十何年間も生きてきて初めてなんだよ。で、これが単なる偶然とは思えないわけ。だって、ものすごい確率だろ?俺には神様が用意してくれたアトラクションって言うか、何て言うかな、とにかく君に会えたのには絶対に何か理由があるって思ったわけ」
彼女は頷きながら話を聞いていた。
他に客も居るので、ずっと俺と話をしているわけにはいかないらしい。
「じゃ、ちょっと行ってきます」なんて言い残して別の客の前へと移っていく。俺は一人で暇になり、ぼーっと正面の棚に並んだ醤油の瓶を眺めたりしている。すぐに飽きてくる。
こんな場所で「店の女の子と客」という立場でなく、ゆっくりと話が出来ればいいのにと思う。ただ、そんなわけにもいかないだろう。店外で会わないかと誘うのは危険だし、警戒だってされる。ここは焦らずに、じっくりと「安心安全なおじさん」と認知してもらえるまで待つしかない。それまでは単なる「お客さんの一人」で居よう。
俺は個人情報を聞き出すようなことは一切せずに、好きな音楽の話なんかをした。
「一番好きなアーティストって誰?」
「え、洋楽ですか?それとも邦楽ですか?」
「どっちでもいいけど」
「うーん、迷うな」
しばし考えた後で彼女は答えた。
「邦楽ならCoccoですね」
「ふむ、なるほどね」
言わずと知れた個性的な女性アーティストである。しかし、その女性ならでは感受性の強さは、時として男性には共感しえない部分でもある。俺も存在こそ知ってはいるものの、彼女の音源は持っていない。男の怖がる女性ならではの「ヤバさ」がある。
「洋楽ならヴァネッサ・カールトン。知ってますか?」
「いや、知らない」
俺はよほど好ましくない限り、基本的に女性ボーカルは聴かないのだ。
「歌にすごく感情が入ってるというか、アルバムごとにどんどん個性が強くなっていくような感じで、好きですね」
「ふーん。今度、聞いてみるよ」
「逆に、好きなのは誰ですか?」
時折、関西のイントネーションが混じる。訛りのない地域で育った俺には魅力的に響く。
「俺?そうねえ。洋楽だったらジェイミー・カラムかな」
「ジェイミー・・・。何ですか?」
彼女はポケットからメモを取り出して、そこに名前を書き付けようとした。
「カラム。ジェイミー・カラム」
今年に入って彼の来日コンサートに足を運んでいた。素晴らしい演奏だった。パーカッション代わりにピアノの縁をリズミカルに叩き、もう小さな身体自体が楽器として鳴っているような錯覚を覚える。少し鼻にかかった声も魅力的だし、紡ぎ出すメロディーラインも実に美しい。他にも好きなアーティストはいるが、現役で真っ先に思い浮かんだのは彼だった。
「邦楽なら、そうだなぁ」
少し考えてから坂本龍一の名前を上げた。あらゆる時代の彼の作品全てを好むほどではないが、車の中で聴く邦楽を思い浮かべると最も再生回数が多いのは彼のソロピアノ作であると思った。
「何だっけ?さっき、言ってたの。ヴァネッサ・・・」
「カールトンです」
「ヴァネッサ・カールトンね」
俺も自分のスマホにメモしておいた。
しばらく話をしたものの、彼女が休憩に入るというので俺も席を立った。
「来週、このすぐ裏のスタジオでバンド練習があるんだ。その時に、また顔を出すよ。バンドメンバーを連れてくる。もし嫌がったら俺一人でも来るよ」
そう言って2時間足らずで店を後にした。
最寄駅まで戻り、車の中で俺はユーチューブを開いてヴァネッサ・カールトンを探した。最も閲覧数の多いのは「サウザンド・マイル」という曲で五千万回を超えていた
透明感のあるピアノのイントロから曲が始まる。歌声やサウンドには弾けるような若さがある。今の季節にピッタリだ。
多少ムードは異なるが、俺の薦めたジェイミー・カラムもピアノの弾き語りという点では一緒だ。やはり、どこか似ているように思う。
「彼女も同じようにジェイミー・カラムを聴いてくれるだろうか」
そんなことを思いながら俺は家路へとハンドルを切った。
俺は夜勤で輸入貨物の税関提出用書類を作成する仕事をしている。勤務時間は夜の8時から朝の5時まで。普通の人とは間逆の時間帯での生活を、もう十年ほど続けている。
何だかんだ言いながらも夜勤を続けているのは、やはり人が少ない時間帯だからかもしれない。
道路が空きはじめた時間帯に車で職場へと向かう。朝も本格的な渋滞が始まる前に帰宅出来る。過剰な人口集中のストレスからは開放される反面、当然のことながら、他人と接触する機会は減る。つまり、出会いに乏しくなる。
夜の時間帯に働く女性は少ない。時給は良くても美容にはよろしくないだろうし、金を稼ぎたいなら他にもっと稼げる仕事がある。当然、職場は男ばかりで、それゆえの気安さはあるが色恋沙汰は無いに等しい。たまに別のチームで「あの二人、出来てる」なんて噂は耳にするが、少なくとも俺には縁が無い。
そうした環境も手伝って、俺は離婚して以来、さほど大きなロマンスには恵まれていない。
ただ再婚などを渇望しているかと言えば、そうでもない。俺に原因があって離婚したわけだが、最愛の娘と離れて暮らす辛さはこたえたものの、再び独身に戻れた喜びもあった。
女性の価値観に合わせて生きるのは、俺のような根っからの自由人にとっては苦痛だ。
まず、自分の行動に干渉されるのが耐えられない。さらには興味の無い買い物に付き合わされたり、逆に自分だけの時間や自由が奪われたりすると鎖に繋がれた犬のような気分にさえなってくる。
だから、今となってはこのまま一人で自由気ままに生きて、一人で死んでいくのかなとも考えている。
しかし、自分と同じような感性を持った存在、例えばジョンとヨーコみたいな関係が築ける異性が居れば、それは楽しいだろうとは思う。ただ性別が異なれば、当然、価値観も大きく違ってくる。そんな自分に都合の良い異性がこの世に存在するとは思えず、仮に居たとしても運良く巡り会えることもないだろう。
以前にテレビで「ソウルメイト」と呼ばれる「魂同士が繋がっている存在」を特集した番組を観た。生まれる前から心が通じ合う組み合わせがあるのなら、羨ましいと思った。どうやらジョンとヨーコもソウルメイトだったと聞いたこともある。
今回、秋葉原で出会った彼女は、ひょっとすると俺のソウルメイトではないだろうか。
もともと秋葉原に集まる予定は別の日だった。しかし、大雪で交通機関が麻痺したために延期していた。もし雪が降らずに当初の予定通りに集まりがあったとしたら彼女と出会えただろうか。おそらく、出会えなかったに違いない。
偶然と言えばそれまでだが、いくつも重なると必然に思えてくる。ひょっとすると、これは神様が俺に与えてくれたビッグチャンスなのかもしれない。
俺が死んであの世へ行ったとする。雲の上には、まるで学生食堂のようにたくさんのテーブルが並んでいる。俺はその中の一つに無意識に近づいていく。
「おつかれ」
「やっと終わったよ」
俺は初対面だけど、どこか懐かしい人々と話をするのだ。
「お前さぁ、あんなにも分かりやすいサインを何で見逃しちゃったの?」
「だよねぇ。やっぱ、そうだよね」
彼女を見逃したら、そんな場面が待っているような空想をした。
単なる恋愛感情とは違う。
そんな言葉では語れないほど、稀有で貴重な思い入れがある。
例えば100人の女性が居れば、その中の数人は恋愛対象となり得るだろう。でも選択肢のない質問、つまり数多の回答が考えられる中で俺と全く同じ答えを持つ女性がどれほど存在するというのだ。
ただ、俺もいい大人なので、恋愛には双方合意が大前提であることも十分に承知している。親子ほど歳の離れた相手に、この草臥れた中年男を愛してくれと望むのに無理がある。余程の「老け専」でもない限り、その可能性は低い。また、それでも若い女を寄せ付けるほどのステータスや金など俺にはない。
いずれにせよ、一方的に好意を寄せて煙たがられてはならない。関係性を損なうことだけは避けたい。何らかの繋がりが築ければいいのだ。無理に口説いたりするつもりもないし、歳の離れた友達でも、ギター仲間でも、形は何だって構わない。とにかく、この運命的と捉えている相手が俺の人生にどう影響するのか、そんな意味があるのかをしっかり確かめねばならないと思っていた。
何しろ今まで生きてきて、ここまで自分とシンクロする人間と出会ったことなど一度もなかったのだから。俺は一卵性双生児なので自分以外の存在との一致には慣れている。その俺が驚くのだから滅多にあることではないのだ。
彼女は昼間、別な仕事をしていると語っていた。だから店に出るのは週末だけとのことだった。今週は金曜が春分の日なので土日を含めて世間は三連休だ。もちろん俺は今週末も店に通うことを決めている。ただ、いつ行けば彼女に会えるのかが分からない。前回は仲間が居たし、それなりに目的もあったので問題はなかったが、一人でアニメファンやメイド萌えする人種が集う店に行くのは気が引ける。
また、彼女以外の女の子には全く興味はないので、秋葉原まで行ったものの彼女は居らずに別の女の子と話をして帰るのは億劫だ。だから、出かける前に電話で出勤状況を確認しておくことにした。
金曜日の朝、帰宅後に就寝し、目覚めたら既に夕方になっていた。とりあえず支度をして家を出た。目指すのは当然、「声優の卵たち」だ。そこで再び彼女と話して、俺なりに出会った意味を見出そうと考えていた。
近所のコンビニまで車で向かい、そこでタバコとコーヒーを買って車内から店へ電話をかけた。店の電話番号はネット検索すると、すぐに見つけることが出来た。
「ちょっと伺いたいのですが、今日、Uさんは出勤されてますか?」
電話口に出た男性に尋ねた。
「すみません。当店ではそういった質問にはお答えしておりません」
「えっ、女の子の出勤状況は教えられないってこと?」
「はい。申し訳ありません」
「そうですか、わかりました」
諦めて電話を切った。
キャバクラのように指名システムがある店ならば女の子の出勤状況を教えるのは当然のことだろう。客は特定の女の子目当てで来店する。しかし指名制度もないメイド喫茶では、やはりガードが固いようだ。
「さて、どうするかな」
自宅から秋葉原までは一時間強かかる。 「行くべきか、止めておくべきか。明日も休みなので順延するって手もある」
しかし今夜、彼女が出勤している可能性だってあるのだ。
しばらく悩んだ末に、とりあえず行ってみることにした。仮に彼女が居なくても、彼女と親しい子と話す中で、何かしら得るものがあるかもしれない。
俺は車をコンビニの駐車場から出すと、自宅とは反対の、JRの最寄り駅へ向かう方向へウィンカーを点滅させた。
秋葉原へ着き、店のドアを開けるとカウンターに立つ彼女と目が合った。隅の席に座る中年男性と話をしていた。
俺はそのすぐ横の席に案内された。上着を脱いで背もたれにかけながら、足を運んで正解だったと安堵した。
目の前に彼女が立つと俺は言った。
「今日は確かめに来たんだ」
「え、何をですか?」
「こないだ、君に俺は二つの質問をしたろ?一つは『火事になったら何を持って逃げる?』ってヤツ。君は俺と同じで赤いセミアコのギターを持って逃げると言った。そこまでは覚えてるよね?で、もう一つが『宝くじで3億円当たったら何に使う?』って質問。これに君は『山の中に家を買います』と答えてから休憩に入った。実はね、それも俺と全く同じ答えなんだよ。俺も3億が手に入ったら、まず頭に浮かぶのは山の中に家を建てる。かつてアパレルメーカーに勤めるバンドメンバーが居てね。その会社の別荘に、よく仲間で行ったんだ。軽井沢なんだけどね。窓の向こうに特に素晴らしい景観があるわけじゃない、ただの林の中なんだけど。でも、すごくリラックス出来るんだよね。だから、俺も理想はそういう所に家を建てて、のんびり過ごしたいってことなんだ」
「そうだったんですか。わたしはそのまま休憩に入っちゃったんで、まさかそれも同じ答えだとは思いませんでした」
「うん。でね、これってものすごい確率だと思うわけ。一つ目の質問は現在の自分を象徴していると俺は考えてるの。で、初対面の人、たとえば飲み屋の女の子なんかに聞いてみたりするんだけどさ。その人の現在の生活や趣味が持って逃げる物に反映されると思うのね。で、二つ目の質問は未来への願望。その二つが自分とピッタリ一致する人なんて、四十何年間も生きてきて初めてなんだよ。で、これが単なる偶然とは思えないわけ。だって、ものすごい確率だろ?俺には神様が用意してくれたアトラクションって言うか、何て言うかな、とにかく君に会えたのには絶対に何か理由があるって思ったわけ」
彼女は頷きながら話を聞いていた。
他に客も居るので、ずっと俺と話をしているわけにはいかないらしい。
「じゃ、ちょっと行ってきます」なんて言い残して別の客の前へと移っていく。俺は一人で暇になり、ぼーっと正面の棚に並んだ醤油の瓶を眺めたりしている。すぐに飽きてくる。
こんな場所で「店の女の子と客」という立場でなく、ゆっくりと話が出来ればいいのにと思う。ただ、そんなわけにもいかないだろう。店外で会わないかと誘うのは危険だし、警戒だってされる。ここは焦らずに、じっくりと「安心安全なおじさん」と認知してもらえるまで待つしかない。それまでは単なる「お客さんの一人」で居よう。
俺は個人情報を聞き出すようなことは一切せずに、好きな音楽の話なんかをした。
「一番好きなアーティストって誰?」
「え、洋楽ですか?それとも邦楽ですか?」
「どっちでもいいけど」
「うーん、迷うな」
しばし考えた後で彼女は答えた。
「邦楽ならCoccoですね」
「ふむ、なるほどね」
言わずと知れた個性的な女性アーティストである。しかし、その女性ならでは感受性の強さは、時として男性には共感しえない部分でもある。俺も存在こそ知ってはいるものの、彼女の音源は持っていない。男の怖がる女性ならではの「ヤバさ」がある。
「洋楽ならヴァネッサ・カールトン。知ってますか?」
「いや、知らない」
俺はよほど好ましくない限り、基本的に女性ボーカルは聴かないのだ。
「歌にすごく感情が入ってるというか、アルバムごとにどんどん個性が強くなっていくような感じで、好きですね」
「ふーん。今度、聞いてみるよ」
「逆に、好きなのは誰ですか?」
時折、関西のイントネーションが混じる。訛りのない地域で育った俺には魅力的に響く。
「俺?そうねえ。洋楽だったらジェイミー・カラムかな」
「ジェイミー・・・。何ですか?」
彼女はポケットからメモを取り出して、そこに名前を書き付けようとした。
「カラム。ジェイミー・カラム」
今年に入って彼の来日コンサートに足を運んでいた。素晴らしい演奏だった。パーカッション代わりにピアノの縁をリズミカルに叩き、もう小さな身体自体が楽器として鳴っているような錯覚を覚える。少し鼻にかかった声も魅力的だし、紡ぎ出すメロディーラインも実に美しい。他にも好きなアーティストはいるが、現役で真っ先に思い浮かんだのは彼だった。
「邦楽なら、そうだなぁ」
少し考えてから坂本龍一の名前を上げた。あらゆる時代の彼の作品全てを好むほどではないが、車の中で聴く邦楽を思い浮かべると最も再生回数が多いのは彼のソロピアノ作であると思った。
「何だっけ?さっき、言ってたの。ヴァネッサ・・・」
「カールトンです」
「ヴァネッサ・カールトンね」
俺も自分のスマホにメモしておいた。
しばらく話をしたものの、彼女が休憩に入るというので俺も席を立った。
「来週、このすぐ裏のスタジオでバンド練習があるんだ。その時に、また顔を出すよ。バンドメンバーを連れてくる。もし嫌がったら俺一人でも来るよ」
そう言って2時間足らずで店を後にした。
最寄駅まで戻り、車の中で俺はユーチューブを開いてヴァネッサ・カールトンを探した。最も閲覧数の多いのは「サウザンド・マイル」という曲で五千万回を超えていた
透明感のあるピアノのイントロから曲が始まる。歌声やサウンドには弾けるような若さがある。今の季節にピッタリだ。
多少ムードは異なるが、俺の薦めたジェイミー・カラムもピアノの弾き語りという点では一緒だ。やはり、どこか似ているように思う。
「彼女も同じようにジェイミー・カラムを聴いてくれるだろうか」
そんなことを思いながら俺は家路へとハンドルを切った。