無機質なコンクリートのビルの前まで来た。
 俺は先ほど上がった階段を駆け上がると店の扉を引いた。
 今度はすっと開いた。
「いらっしゃいませ。『声優の卵たち』へようこそ」
 いきなり、元気のいい女の子の揃った声が響いた。即座に場違いな店に入ったことを後悔した。もう逃げようがない。
 店内は照明も明るく、黄色の制服を着た女の子たちが数人ほど立っていた。そういう雰囲気に慣れていないので、こちらが恥ずかしくなってしまう。
「タバコは吸われますか?」
 尋ねられて、吸うと答えると左側のカウンターへ案内された。どうやら左側が喫煙者、右側が吸わない人と分煙されているらしい。カウンターだけの、せいぜい10人も座れば満席になるような小さな店だ。
 変わったところでは店の中央にガラス張りのブースがあって、そこで男性スタッフが何か作業をしていた。
 最初に店のシステムの説明を受けた。
 まず入店から1時間で800円取られる。それ以降、30分だか1時間ごとに料金が加算されていくが、その時間管理は自分自身でするようにと言い渡された。
 要するに、キャバクラ同様に長居すればするだけ金がかかるってことだ。だが、長居するつもりなどない。声優志望の女の子に、我々の目的と主旨説明をして、大体、どの程度の値段でバイトを引き受けてくれるのかを訊ね、早々に切り上げる。
 ドリンクメニューはそこらのカウンターバーと変わらない。俺たちは飲み物を選び、注文を取りに来た女の子に早速、話しかけてみた。
「ここの女の子ってさ、みんな声優さん志望なの?」
「そうですね。そうでない子もいるけど、基本的にはそういう女の子が集まっています」
「なるほど。俺たちさぁ、スマホ用のアプリを開発しようとしていてね。それには女の子の声、というかアナウンスが必要なんだよね。ただ、そんなに長い台詞とか読んでもらうわけじゃないんで、さほど上手じゃなくてもいいって言うか、完全なプロじゃなくても構わないんだよ。でさ、例えば、君やこの店の女の子に、そういう仕事をお願いしたりなんて出来るものなのかな?」
「うーん、お店の方を通してもらわないと、分からないですね」
「そうなんだ。個人で勝手に仕事を受けるってわけにはいかないんだね」
「そうですね。やっぱりお店を通していただかないと」
「なるほど」
 店を通してくれの一点張りだ。
 アマチュアならばギャラが発生するだけで喜ぶと踏んでいた俺たちは少々鼻白んだ。
「事務所、通さなきゃダメなんですね」
 笑いながらNが女の子の発言を揶揄した。
「そうみたいだね」
 俺も笑みを浮かべて返したが、腹の中では悪態をついていた。
「この小娘は何を言ってやがる?こっちはメイド喫茶に集うオタク連中とはワケが違うんだぜ?お前らに鼻の下なんか伸ばさねえんだよ。アプリのガイダンスなんて、若いネーちゃんで、甘ったるい声さえ出せれば誰でもいい。そこら辺を歩いてる素人だって構わない。録音機材さえ揃っていれば、音楽スタジオやカラオケボックスで一時間もあれば録音は出来る。それで五千円にでもなれば御の字なんじゃねえの?」
 こちらのしらけた気分が伝わったのか、それとも禁煙側のカウンターでお呼びがかかったのかは分からない。いずれにせよ注文を取った女の子は俺たちの前から居なくなってしまった。
 代わりにボブカットで、一重目蓋で大きな瞳の、どちらかと言えば暗い印象の娘が俺たちの前に立ち、飲み物を作った。
「この店に長居は無用だ。一時間だけ飲んで切り上げよう」
 誰もがそう考えていた。
 プロの料理人が厨房に控えるレストランでも、プロのバーテンダーがカウンター越しに立つバーでもない。卵に擬えた黄色いメイド服を着た若い娘がカクテルを作り、ビールをグラスに注ぐ。
 俺の目の前の女の子はゆっくりと、丁寧に、傾けたグラスにビールを注いでいった。少しまどろっこしいが、その几帳面さには好感を覚えた。
 テキパキと出来ないわけではない。神経を尖らせて、こぼさずに出来るだけ美しい配分でビールを注ごうとしている。
 そんな風に見えた。
 注文した飲み物を注ぎ終えた女の子は、離れたくても店の方針上でそうはいかないのか、伏せ目がちで居心地悪そうに俺たちの前に立っている。
 確かに居心地も悪かろう。
 我々はオムレツにケチャップでハートを描かれて喜ぶタイプではない。おそらく、この店はアニメ好きの連中が集うのだろうが、その類でないことは明らかだろう。
「Uと言います。まだ入ってひと月の新人です。よろしくお願いします」
 胸に付けられた名札に「U」とあり、横には仮名が振ってあった。
「お仕事、何されてるんですか?」
 ありきたりな質問だ。
 我々三人は航空宅配便会社の元同僚であり、今日は思いつきのアプリ制作の打ち合わせで集まったこと。その制作過程で声優さんが必要になるため、この店を覗いてみたことなどをざっと話した。
「君、若そうだね。いくつ?まだ十八、九でしょ?」
「いえ、そんなことなくて。もう二十三です」
 彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。
 若くなくて済まないとでも思ってるのだろうが、十代後半も二十代前半も、じきに五十歳に手が届く俺からすれば同じだ。
 俺には離婚後は離れて暮らしているが高三になる娘がいる。娘のちょっと上の先輩と会話しているようなものだ。共通の話題なんかあるはずがない。
 話は変わるが、俺はキャバクラのような若い娘と会話を楽しむ店が好きではない。
 正確に言うと、面倒くさい。喜んでキャバクラ通いするヤツの気が知れない。何が楽しいのか、さっぱり分からない。
 自分の半分も生きていない娘っ子と何の話をしろというのだ。口説いたり、軽口ばかり叩けば楽なのだろうが、性格上、つい余計な気を遣ってしまう。そうすると大抵、色気だけは一人前で知識はぺらっぺらな小娘は調子に乗って自分のことばかり話すのだ。それに愛想笑いを浮かべて適当に相槌を打つ。小娘は、さらに調子に乗る。どちらが客かわからなくなる。仕舞いには妙に気疲れが残る。
 さらに、いくら機嫌を取ったところで、出費こそかさめど、おそらく何の見返りもないのだ。口説き落とせないならば、短い会話の後、すぐに自発的に服を脱いで、性欲を満たしてくれる風俗の方がずっといい。  
 目の前の娘は少々暗い印象だが、無駄に明るいだけで訊いてもいないのに自分の事ばかり喋りたがる蓮っ葉なねーちゃんよりずっと好ましかった。
「ねぇ、趣味は何ですかってきかれたら、なんて答える?」
 彼女が話しやすいように話題を振った。
「そうですね。本とか読むのが好きなので。推理小説とか」
「へぇ、どんなの読むの?」
「今、読んでいるのは『ドグラマグラ』って本なんですけど?」
「えっ、夢野久作?」
 つい大きな声を上げた。
 二十三歳の女の子が戦前の推理小説、しかも「奇書」と呼ばれる本を読んでいるとは想像もしていなかった。
 にわかに目の前の女の子に興味が湧いた。
 その後も色々と話したと思うが、さほど記憶には残っていない。あまりに可愛いのでフィギュアにして持ち帰りたいなどと調子のいい事を言った。
 ただ、そんな何気ない会話の中で投げかけた質問への彼女の答えが俺に強烈なインパクトを残した。
「じゃあさ、もし自分の家が火事になって一つだけ何かを持って逃げるとしたら、何を持って逃げる?」
 それは、見ず知らずの人を知る上で使う質問だった。
 財布、貯金通帳、携帯電話などと答える人は現実的である。よく言えば「しっかり者」だし、逆から見れば「大した趣味やこだわりのない凡人」とも言える。
 何らかの趣味を持つ人ならば、必ずその中で最も重要な物、言い換えれば「宝物」を持って逃げる。
 収集が趣味ならば、自分のコレクションの中で最も愛着のある品があるはずだし、女の子であればブランドもののバッグでも洋服でも、アクセサリーでも、お気に入りの品があるだろう。
 金銭には換えがたい、特別に思い入れのある何か。そこから、その人となりが窺えるし、話も広げやすい。
「ギターですね。赤いセミアコのギター。ルックスに惹かれて衝動買いしたんですけど。それ持って逃げます」
 衝撃的だった。
俺とまるっきり一緒だったからだ。
 昨年の秋、以前より欲しかったギターを手に入れていた。
 ギブソンES330。ビートルズ使用でおなじみのエピフォン社製の名器「カジノ」の原型となったギターだ。カスタムショップ製の初期型モデルで、ネックのジョイントが現行品より深くシンプルなドットポジションだ。かつてのバンド仲間が所有していて何度も弾かせてもらった。音色はシングルコイルならではのストレートさと、箱モノの暖かみを併せ持っている。粗野とメロウさを兼ね備える最高のギターだと思う。
「えっ、マジで?それ、俺と一緒じゃん。え、何ていうギター?」
「エピフォンの・・・。何て言うんだっけ?」
「ソレント?カジノ?」
「違います。えーと、Rがつくヤツ」
「リビエラ」
「あ、そう。それです!」
「へぇー」
 相槌を打ちながら、俺は思わぬ共通点に嬉しくなった。
 中学生の頃からロックが大好きで、バンドを組むようになってから何本もギターを所有するようになった。しかし現在、部屋に置いてあるのは赤いセミアコだけである。
 他のギターにも愛着はあるが、一刻も早く逃げなければならぬ状況なら、俺も間違いなく赤いセミアコを持って表へと駆け出す。
 その後も盛り上がって色々話をした。
 ただ、最後にした質問の答えが、さらに俺を驚かせることになる。
 彼女が休憩に入る直前だった。
「もしも宝くじで三億円当たったら、何に使う?」
 三億もあれば、一般庶民の物理的欲求は大抵かなってしまう。海外旅行も、それこそ豪華客船での世界一周だって可能だ。都心に不動産購入も出来るし、フェラーリも余裕で買える。実業家タイプの人ならば会社設立だって店舗を開くのにだって十分な資本金となる。
 つまり、答えにその人の理想の世界が広がっているのだ。
「えー、そうですね。山の中に家を立てます。林の中とか、落ち着くじゃないですか?」
「軽井沢?」
 Nが訪ねると「蓼科。私は蓼科がいいです」と答えて、彼女は休憩時間のために店の奥へと引っ込んでしまった。
 俺は一人で呆然となっていた。
 なぜなら、またしても彼女の答えは俺の思い描く三億円の使い道と全く同じだったからだ。

 帰りの電車の中、Nとの会話は彼女の話題で持ちきりだった。
「楽しそうでしたねぇ」
「いやぁ、楽しかった。あんなに若いのに話の合う子なんて初めてだよ」
「通います、あの店?」
「通うに決まってるじゃん!また、絶対に行くよ」
 上機嫌でそんな遣り取りをしたが、Nと別れて一人きりになり、少々冷静に考えてみると、これはとてつもないことのような気がしてきた。
 どれほどの確率で若い娘が赤いギター、しかもセミアコのギターを所有しているというのだ。また、どれほどの確率で山中に家を立てるのを第一の理想とする人がいる。さらに、どれほどの確率で、その二つの答えが一つの人格に共存する。おまけに、どれほどの確率で俺と全く同じ二つの志向を持つ人と遭遇出来る。
 単なる偶然とは思えなかった。
 ただの偶然で、ここまでシンクロするなんてあり得ない。
「この出会いには何らかの意味がある」
 強く、そう感じていた。
 この縁は逃してはならないと思った。
 俺が出会ったのは、ルックスや性格が好ましい単なる「タイプの女の子」じゃない。
 俺が出会ったのは、もう一人の俺だ。
 そんな風にさえ思えてくるのだった。